Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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書評コーナー

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2005年12月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評

 

星の王子さま学

作者: 片木智年
出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
発売日: 2005/12
メディア: 単行本
クリック: 9回  


片木智年『星の王子さま☆学』
評者:稲垣直樹

 『星の王子さま』を論ずる困難はおそらく、そうした論ずる行為の虚しさに打ち勝つことである。

 その虚しさの第一の原因は作品解釈の著しい多様性である。出版に際しては一応「児童書」として企画されながら、子どものための本であるだけでなく、おとなのための本でもある。単純過去を基調とする、お伽話(あるいはもっと一般的に言って小説)の常道に反して、話者の思い出を語ることから物語を始め、(ただ一つの例外を除いて)複合過去で第二章の半ばまでを通して、最終章の話者の思い出と巻末の付言によって複合過去の叙述で終わる二重構造を採用している。出来事の因果関係による連鎖に替えて、王子が訪ねた何番目の星、飛行機の不時着ないし王子との邂逅から何日目というような序数詞による、形の上では交換可能な出来事が並列されている。王子の存在自体、そして、その地球での最後(あるいは最期)が曖昧である。キツネ、バラ、バオバブ、ヘビなど象徴性の極端に豊かなものが登場する。こうした諸々の点からして、この物語には数限りない解釈を呼びこむ仕掛けが始めから施されているといえる。

 第二の原因はアカデミックな専門研究の対象として、サン=テグジュペリ、そして『星の王子さま』が最近までしかるべく正面からは扱われてこなかったことである。プレイヤッド叢書の全1巻の選集が全2巻の全集に全面改訂されたのを機に、Michel Autrand(パリ第4大学)、Michel Quesnel(リヨン・カトリック大学)らによる厳密なテキスト校訂・注記がなされたのは画期的であったが、これは20世紀末1994-1999年のことであった。従来、研究書らしい研究書は少なく、ジャーナリスト等による伝記の類があまりに多かった。

 第三の原因は第二の原因とは裏腹の(あるいは、表裏一体の)この作品の商業的成功である。1943年の刊行以来、世界中で130種類以上の言語に翻訳されて、累計発行部数は6千万部にのぼり、日本では1953年の邦訳刊行以来、7百万部が販売されているという。2004年末でこの作品の翻訳権が一出版社の独占を離れ、その後の1年間だけで十種類近い「新訳」が出版された。作品論・解説書の類も数種類上梓されている。昨今この作品の作品論・解説書を出版することは、そうした商業的成功に便乗した(古くさい言い方をすれば、資本主義に荷担する)営為とも受け取られかねない。

 本書『星の王子さま☆学』は、そうした虚しさをものともせずに世に問うた入魂の一冊である。「『星の王子さま』(内藤訳)と原作Le Petit Princeの無条件なファン」(p.106)と公言する著者が、ある程度の客観性と節度を確保しつつ、この作品に対する思いの丈を縷々吐露するさまは誠にすがすがしい。数字など表面的な事象にのみ捕らえられて「本質的なこと」を見ない大人たちを批判するパッセージについて、「「身長百八十? イケメン? 年収二千万? 超ステキ! 絶対紹介してよ」などと『星の王子さま』ファンを自称する女性はいってはいけないのである」(p.154)とユーモアを交えて読者に忠告したりもしている。研究書を標榜することなく、「大人のための『星の王子さま』入門」(p.139)に徹した点がなんとも潔い。

 本書には「大人のための入門」として至れり尽くせりの配慮がなされている。第1章から第4章まで『星の王子さま』の主要テーマについてほとんど網羅的に考察している。Le Petit Princeというタイトルの意味から始めて、話者の「アルテル・エゴ」としての王子、イエス・キリストと王子の類似、サン=テグジュペリの他の作品を含めた愛というテーマの展開から、王子が訪ねる星の住民たちが表す同時代の社会批判までである。そのあと、第5章「『星の王子さま』小事典-ほんとはフランス語で読みたかった人へ」では、フランス語の原語・原文を適宜示しながら、この作品の理解に必要なキーワードやキー・コンセプトについて、「序文」から物語の終わりまで章を追って具に説明している。さらに年譜の代わりに「サン=テグジュペリ―ミニ伝記」まで付け加える周到さには舌を巻く。

 「フランス古典文学、おとぎ話論」(本書の「著者紹介」)専攻という著者の面目躍如たるものがあるのは、聖書の記述、フランス中世文学・古典文学、とりわけ、そのアレゴリーやシンボルの伝統をふまえたキツネ、バラ、ヘビ等にまつわる物語の分析であろう。Le Petit PrinceのPrinceをユマニスムの思想との関連で「君主」とも捉え、王子も(そして、地中海の藻屑と消えたサン=テグジュペリ自身も)「死」という「犠牲」sacrificeによって初めてLe Petit Princeの「Petitという言葉が表す条件から解放され」(p. 83)、「すべての「個人」を超えるものであると同時に、すべての「個人」が体現している」(p. 27)本質的「人間=prince」(同上)となると論ずる点もしかりである。

 きわめて高度な内容も含めて作品理解に不可欠な事柄を平易に解説した、『星の王子さま』の出色の解説書といえる。
2005年11月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評

 

スタール夫人 (Century Books―人と思想)

作者: 佐藤夏生
出版社/メーカー: 清水書院
発売日: 2005/11
メディア: 単行本
購入: 1人 クリック: 6回  


佐藤夏生『スタール夫人』
評者:大竹仁子

 人の生き方はさまざまである。多くの人は、風土や国や時代に、また育った環境に、その生活や思想を大きく左右される。一見自分の人生とは無関係に思える、古い時代や異国の人生に、人はなぜ興味を抱くのだろうか。人生は決して平坦でもなく、幸せに充ちたものでもない。むしろ苦渋に充ちている。美しく善良な人生も人の心を洗うが、社会常識を大きく逸脱した行動や苦難に充ちた人生の方が、かえって私たちの心を慰め、安心させてくれるとでもいうのだろうか。そんな疑問に、佐藤夏生氏の『スタール夫人』は充分答えてくれる。18世紀後半から19世紀初頭にかけての激動期を、もがき苦しみながら、燃え上がる想いを全開して潔く生きるスタール夫人の言動は、見えない未来に不安を抱いて日々を送る私たち現代人に、生きるための力強い勇気を与えてくれるようだ。

 フランス革命期に活躍した財務総監ネッケルの娘、時の権力者ナポレオンに屈せず、国外追放の憂目を見た女性、ロマン主義理論構築の先駆者といった断片的な知識は持っていても、これまで日本では、スタール夫人の著作に深く親しみ、充分な研究が重ねられてきたとは言い難い。佐藤夏生氏の『スタール夫人』は、その生涯と思想に深く踏み込んだ、日本では初めての本格的なスタール夫人伝記と言えるだろう。

本書の構成は大きく二部に分かれており、第一編では、革命期を生きる夫人の生涯、とりわけその感情生活が史実に沿って描かれる。結婚前の教育を世間とは隔絶した修道院で受けることの多かった当時の上流階級の子女とは違って、ネッケル嬢は母親の開くサロンで大人たちから直接多くを学んだ。社会や政治の現実について熱弁をふるう大人たちの姿は利発な少女の心を大いに刺激したようだ。18世紀の啓蒙思想家、とりわけルソーに影響を受ける。サロンは、終生、夫人の学びの場となり、思考の場となり、活躍の場となる。

 プロテスタントの両親により、「善であり、清らかである自然の命ずるままの心の宗教を与えられた」と筆者は記す。美男だが情熱のない夫、終生敬愛し続けた強い父親、父親に感謝の念を抱き続ける潔癖な母親、そのような環境の中で、スタール夫人の心身は自由にはばたく。当時の上流階級の結婚は、産む性としての女性に家系を正統に継承していく義務は課すが、既婚女性の恋愛には比較的寛容であった。夫人の情熱と資産は何と多くの才能ある青年たちを惹きつけたことだろう。しかし、激情の持続時間は短い。恋愛の対象が多くなるのも当然かもしれない。そして、それらの恋愛感情はいつも夫人に並外れた行動を促した。新しく恋心が芽生えると夫人の政治活動も活発となり、行動範囲も広がり、文筆活動も進む。いかに才能があっても当時の女性に政治参加は許されていない。恋を得ると、精神が高揚し、正義感が溢れて、まるで恋する男性を通して夫人の政治的野望が開花するかのようである。時の権力の象徴、ナポレオン皇帝にすら戦いを挑むのである。ただ、時には恋する男性に深く傷つけられながらも、その戦いの矛先は、決して弱者を救うためにではなく、精神の自由を守るために、自由を阻む権力に対して敢然と向かっていく。その姿は女性というより闘志を燃やす男性の雄姿そのものである。

 第二編では、主に著作を通して夫人の思想が語られる。まず、父親譲りの強い意志をもって主張し続ける夫人の政治的見解が丁寧に解説される。革命の渦中にあって、革命の歴史的必然性を認めつつ、その残虐性をも目にした女性の率直な言動は毅然としていて快いが、混乱の中で瞬時の判断を余儀なくされた夫人の悲鳴も聞こえてくる。「平和」と「自由」を説き、魂は情熱から解放されて哲学的な思索を経てこそ宇宙を実感する幸せを得るのだと冷静に説いて、混迷する社会に秩序を取り戻そうとする夫人、その諸言動の根底には「人間精神の無限進歩」という歴史観が存在すると著者は述べる。次いで、文学者、小説家としての夫人が語られる。哲学的な思想に裏付けられた文学こそが革命で傷ついた人々の「魂を揺さぶるもの」であると、文学の社会的役割を強く意識する夫人。ここでは、ロマン主義理論構築の最大のキーワード、精神の高揚とでも訳すべき「アントゥジアスム」についても詳細に分析される。さらに、女性論、小説論、また多くの国を旅した夫人のヨーロッパ比較文化論など、さまざまな研究への可能性が示唆されている。

 『スタール夫人』は、未来を予測することの難しい現代にあって、多くの人に生きることの意味を深く考えさせるきっかけとなることだろう。また、シモーヌ・バレイエ氏のおかげで、1960年頃からスイスやフランスで盛んになってきたスタール夫人研究の経緯や現状も概観されており、夫人の研究を志す人たちにとってその全貌を知るための必読の書と言えるだろう。
2005年10月15日 00時00分 [WEB担当]

2005年度秋季大会

大会基本情報

新潟大学

参加者317

研究発表27

Le symbolisme et la langue BIVORT Olivier(Université de Trieste)

2005年5月28日 00時00分 [WEB担当]

2005年度春季大会

大会基本情報

立教大学

参加者580

研究発表37

Proust et le nouvel écrivain Luc FRAISSE(ストラスブール第2大学)

2005年1月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評

 

バタイユ―魅惑する思想 (哲学の現代を読む 1)

作者: 酒井健
出版社/メーカー: 白水社
発売日: 2005/01
メディア: 単行本
購入: 2人 クリック: 16回 


酒井健『バタイユ 魅惑する思想』
評者:神田浩一

バタイユ研究の第一人者による最良の入門書
 酒井健氏は、日本人として初めてバタイユに関する博士論文をフランスに提出したバタイユ研究の第一人者である。本書は、その著者のバタイユに関する4冊目の著作である。白水社の月刊誌『ふらんす』に2001年5月号から2002年3月号まで掲載された「バタイユを読む」の解説部分と同誌2003年4月号の「バタイユ」というテクストをもとにしているが、著作にまとめられる際に大幅な改稿が加えられた。バタイユの12のテクストの解説とそこに表現された思想の意義が説明され、また、「バタイユに魅せられた人々」という題で、バタイユにゆかりある6人の人物の紹介が書き下ろされ挿入されている。

前書きで酒井氏は著作の狙いを次のように述べている。「バタイユの思想世界をめぐる自然風の廻遊式庭園に仕上げてみたかった。」「西洋にも日本にもある自然風庭園の面白さ、つまりどこに通じているのか、何が見えてくるのか分からない散策路の楽しみが少しでも本書から出ていれば幸いである。」(4頁)

 したがって、本書は、厳密な意味での研究書ではなく、また、体系的、網羅的に説明された入門書でもない。むしろ、バタイユを題材にしたエッセイであり、バタイユ思想の魅惑を余すことなく語るものである。

 酒井氏の魅力は、「ねばり強い実証研究」とそれを語る際の「熱い語り口」だ。多くの場合、この2つの要素は相反しがちであるが、酒井氏のテクストではこの2つの傾向がうまく同居している。

 例えば、「古文書学校時代のジョルジュ・バタイユ」という論文を書いたときには、バタイユが卒論執筆時に参照した大著に目を通すことで、バタイユの読書体験を追体験している。また、博士論文においても、一見バタイユ思想と無関係な、バタイユと同時代の物理学の動向までも綿密に渉猟している。

 「熱い語り口」は、酒井氏の資質の問題であると同時に、彼の研究対象であるバタイユにも由来する。バタイユは、ニーチェについて語る際に、哲学的に対象化して論じるよりは、むしろニーチェという希有な存在を生きるべきだと考えていた。同様に、バタイユを対象化して論じるよりは、バタイユとともに生きることが重要になる。

 エッセイというスタイルは、バタイユの教えに少しでも近づきたいとい願いを表現した形式であろう。そして、研究書でもしばしば見受けられる酒井氏のバタイユへの強い思いは、エッセイとスタイルで解放され、次のような詩的な言葉に結晶する。「『私は哲学者ではなく聖人なのだ、おそらくは狂人なのだ』と叫んだバタイユの作品群は、肉体の狂的な生々しさを放って、今も思想史の極北で輝いている。読者との聖なるコミュニケーションを待ち望む熱き星雲として、である。」(209頁)

 このような力強い語り口とバタイユへの熱い思いが、バタイユに魅了される新しい世代の読者の創生に寄与しているのだろう。

 しかし、その切迫さがいささか性急過ぎる場合には、読者は文章に入れ込めずに当惑することになる。本書でも、「イデー」と「実証」という単純な二項対立を措定し、「イデー」の重要性を述べる一節に、特にその弊害が見られる。その二項対立の存立そのものを疑う視点が欠如しているためである。酒井氏の特徴が、イデーを語る熱い語り口と緻密な実証であることを考えれば、酒井氏は自らの議論を自分で論破していることになるだろう。

 ただし、バタイユのテクストに寄り添ってなされる本書の解説は、多くの場合、説得的かつ妥当なものであり、たとえ文学的な美文に流れ、議論が多少なりとも曖昧になることがあったとしても、解釈の本質を外すことはない。

 その理由として考えられるのが、本書の成立事情である。雑誌掲載時には、仏文解釈の教材としてバタイユのテクストが用いられ、思想の解説はむしろ補足的なものだった。テクストの忠実な読みから始まった解説というスタイルが、悪しき抽象性へ向かう力を抑制し、議論の道筋に良い意味での制限を与え、説得的なものにしているだけでなく、また、酒井氏の熱い語り口に適度な抑制をもたらすことで、かえって彼のバタイユへの熱い思いを効果的に表現することに寄与している。その意味では、本書は、今まで酒井氏が記したバタイユに関する著作の中で最良のものであり、バタイユ思想に触れたいと思っている人はまず手に取って見る価値のある著書であると言えるだろう。