Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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書評コーナー

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2008年2月25日 14時45分 [WEB担当]

西山雄二『異議申し立てとしての文学』

書評


 

 異議申し立てとしての文学―モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性

作者: 西山雄二 
出版社/メーカー: 御茶の水書房 
発売日: 2007/09 
メディア: 単行本 
クリック: 10回 


評者:郷原佳以

 20世紀を生き抜いた文学者、モーリス・ブランショは、30年代に右派の政治記者として筆で身を立てるようになってから、いわば60余年にわたって自らの署名を通して公的人物であり続けた。その活動には、当然のことながら様々な側面がある。なるほど誰にとってもまず想起されるのは文学者としてのブランショであろう。とりわけ多くの人にとっては、文学を「死」との連関において思考することを提起した難解な文芸批評家であるだろう。そしてその文学理論は、公の場に顔を出すことを拒否した彼自身の姿勢と通底するものと感じられてきたことだろう。あるいはまた、物語的装飾を削ぎ落とした彼の虚構作品も、自身の文学理論に忠実なものと思われてきたかもしれない。しかしブランショの活動には、「文芸批評家」と「作家」という肩書きには収まりきらないものもあった。上述のように出発点は政治記者であったのだし、58年から68年、すなわちアルジェリア戦争から5月革命に至る期間には、志を同じくする文学者たちと共闘して数々の政治的な活動を行った。では、「文芸批評家」、「作家」としての彼の姿勢が相互に一貫した印象を与えるものだとしたら、それと彼の政治的な実践との関係はどうなっているのか、そこには果たして内在的な一貫性があるのだろうか。このような疑問はもっともなものであろう。にもかかわらず、従来、「文学的ブランショ」の研究と「政治的ブランショ」の研究はあまり相性がよいとはいえず、両者は切り離されるか、接続が試みられた場合にも、文学論のうちに政治的立場の残響を聴き取るといった反映論的なものが多く、説得的な説明は稀であった。そのような状況を、一種の発想の転換と明快な理路によって打開してみせたのが本書である。

 本書は2006年に一橋大学に提出された同題の博士論文を元にした、3部構成11章(および序論、結論、補章1章)から成る浩瀚なブランショ論である。3部の主題は「孤独」(全1章)、「友愛」(全5章)、「共同性」(全5章)であるが、著者によればこれらはそれぞれ一人称、二人称、三人称という「人称世界」(326頁)に対応している。コーパスとしては、第1部では文芸批評、第2部では「友愛」概念の錬成が見られるバタイユ、レヴィナス、アンテルムらに関わる60年代のテクスト、第3部では政治的活動や思想が跡づけられる30年代から68年に至るテクストが扱われている。さらにこの「三幅対」は「横糸」として設定されており、「これら三極構造を縫い合わせる縦糸として、「異議申し立て(contestation)」の運動」(vi頁)というモチーフが選ばれている。

 本書の魅力は、何よりも、ブランショ研究に数々の有意義な視角と知見をもたらす本格的な研究書でありながら、著者ならではの尖鋭な問題意識に基づいた「文学と政治」という普遍的なテーマ設定によって、専門家のみならず幅広い読者層に訴える力を備えていることである。しかし、文学理論と政治的実践の内在的な連関を探るという困難な課題に取り組みながら、本書が同種の試みと一線を画して説得力を保持しえているのはなぜか。明晰な文章、各章の緊密な連携による確実な構成もさることながら、それは、軸となるブランショの文学理論の理解が実に的確で、ぶれがないからだと思われる。というのも、文学者の文学理論と政治的活動の接点を求める場合、後者の解明に重心が置かれるためか、前者の方はえてして矮小化されがちである。しかし本書の場合には、まず第1部においてブランショの文学理論の核心――「文学空間」において「言語活動と死が直交する」(iii、30、323頁等)複雑なありようをめぐるもっとも難解な部分――に丁寧な解説が施され、そして「政治的なもの」に関わる第2部以降の各章はそのつど第1部に照らし合わせながら進められてゆくため、全体として文学研究者にとっても信頼に足る議論となっているのである。そしてこの構成にも顕著に現れているのが、本書の鍵を握っている発想の転換である。

 すなわち本書は、ブランショの30年代の国粋主義的時評を告発しようとする試みの多くがそうであるように、政治的立場が先にあってそこから文学理論が生まれてくるのだという立場を採らない。そうではなく、いってみればつねに文学理論が先にあるのであって、30-40年代における「革命」の問題系も、ユダヤ人大虐殺をめぐる姿勢も、アルジェリア戦争やド・ゴールへの反対運動も、あるいはまた68年5月革命への参画も、すべてはその文学理論に基づく文学的活動の一環であるというのが、本書の底に流れる主張なのである。

 したがって、読者は本書を読みながら、「文学」が徐々に書物の外に飛びだしその射程を広げてゆくのに気づくはずだ。たとえば本書では、アルジェリア戦争への反対を訴える『7月14日』誌へのブランショの協力、「アルジェリア戦争における不服従の権利宣言」(通称「121人宣言」)起草への彼の尽力、その延長線上で彼が60年代前半に準備した『国際雑誌』企画、そして68年5月に彼が発足させた「学生-作家行動委員会」、要するに、2003年に刊行された『政治論集』(日本語訳2005年)にまとめられた文書や活動がすべて文学理論との関係性において位置づけ直され、文学的活動として分析されている。なぜなら本書によれば、「書物の不在」を見極めたブランショは、「日刊紙、週刊誌、書物、宣言文やアピール文[…]と様々なエクリチュールの形態を経験」することで、「自らの文学観にしたがって、文学がいかなる形態を与えられて存在するべきかを、その都度、模索し続けた」(iii頁)からである。そしてそれら「様々なエクリチュールの形態」になおも一貫性が認められるのは、まずもって、それらが絶対的な――すなわち、自らをもたえず問いに付し続ける――「異議申し立て」として存在しているからである。

 「文学」のこのような変容と遍在のありようを、著者は「文学空間の可塑性」(30頁)と名づけ、30年代から68年に至る時空間のなかに浮かび上がらせてゆく。しかしその探索は、「あとがき」を読めば分かるように、「異議申し立てとしての文学」が現代世界にとってますます必要となっているという著者の痛切な思いに裏打ちされている。非人称的な「文学空間」を思考し抜いたブランショから出発してほとんど論理的飛躍を感じさせることなく現実的な諸問題へと着地する、本書はかくも大胆な試みを成し遂げた稀有な「文学論」である。
2008年2月14日 13時36分 [WEB担当]

中村栄子『プルーストの想像世界』

書評

 

 プルーストの想像世界

作者: 中村栄子 
出版社/メーカー: 駿河台出版社 
発売日: 2006/12 
メディア: 単行本 
クリック: 3回 


評者:牛場暁夫(慶應義塾大学

 この著作には、作者が長年にわたって打ち込んでこられたフランス文学研究の多くの豊かな成果が集められている。「あとがき」には本書が「気楽な読み物」であることが書かれている。たしかにプルーストの作品からの引用も豊富で、読者は多彩な文学的な連想に誘われてゆくし、プルースト特有のイメージの饗宴に参加する楽しみをこの本に見出すこともできるだろう。

 しかし、小気味よく次々にまとめられ、時として断言されてゆく多様な論点が、実は作者の深い学識や文学的教養、また繊細な文体分析のセンスに支えられ裏づけられているものであることに読者は少しずつ気づかされることになる。中村栄子氏はクロード・アザジほか数人による『欧米文芸登場人物事典』や、言語学関係の学術書数冊の翻訳を手掛けてこられたし、また最近の学会での研究発表の動向などにも精通されてもいて、そうした幅広い知識がこの著作に深みと厚みを与えている。このため本書は随所で刺激的なヒントを与えてくれるものとなっている。

 評者にとってとりわけ印象深かったのは、第二章「プルーストの寝室」に含まれている「『私』+複合過去」である。この論ははじめフランスのプルースト研究論叢にフランス語で発表されたあと、今回本書のために書き直されたものだが、プルースト特有の複合過去の使用が、『失われた時を求めて』全体の構成をも視野に収めつつ緻密な視点から分析されていて、記憶に鮮明に残るものとなっている。複雑で微妙な時制の問題が、ピエール・ギローの論点を援用しつつ整理され展開されていて間然するところがない。作者はピエール・ギローの言語論を二冊翻訳されているが、その体験がこの論文に具体的な形となって結実したのではないだろうか。      

 また、貴重な引用を読むこともできる。例えば、レミニサンスに関する独自の解釈を提示するサント=ブーヴの文(「新月曜評論」1864年11月28日)を第三章において読むことができる。評者は寡聞にしてこの文章の存在を知らなかったので、知的な興味をおおいにかきたてられた。もっとも、こうした豊富な学殖に敬意をおぼえつつも、せっかくの重要な引用を断片的なものに終わらせず、論旨をさらに展開させ広い文脈の中に引用を位置づける作業も同時に読みたくなったことも確かである。しかし、それは望蜀の言というものになってしまうだろう、中村氏は本書を学術書としては執筆されなかったのだから。  

 第三章「記憶と身体」では、無意識的記憶が心情や心理ばかりからではなく、「全心身の動転」から生じる現象として把握されていて、時として抽象的かつ知的に論じられるきらいのあるこのきわめてプルースト的な現象の特質があらためて正面から提示され直されている。また、プルーストにとっては、記憶が「無数の壷の集合体」のようなものに見なされているという、これもまた時に忘れがちな、しかし重要な出発点が再確認されていて、共感をおぼえる。

 ただ、文学的教養が多岐に渡るものだからだろうか、論旨が時に自由連想に走り、論調が唐突な断言で終わる箇所も散見される。例えば、第五章では、ナプキンで口を拭った時におぼえる無意識的記憶を、筆者は『千一夜物語』の書き換えであると断定する ―― この無意識的記憶は「アラジンが洞窟に閉じ込められ、万策尽きて両手を合わせ、最後の祈りを捧げると、指にはめたことを忘れていた魔法の指輪をこすってしまい、そこに魔神が出現して彼を洞窟から開放する、という話の書き換えにほかならない」。この五章では、ほかにもスワンとオデットが『白鳥の湖』にあやかったものとされているが、一般読者に向けた今少しの丁寧な説明があったほうがよかったのではないだろうか。

 中村氏は1972年にパリ第四大学に提出したジッド研究で博士号を取得されているが、本書の第一章はジッドとプルーストとの性生活を含めた手際よい比較に割かれている。また、中村氏は生成研究や、精神分析研究によるプルースト研究の最近の成果も紹介し、さらにそこに独自の見解も加えられている。本書からは旺盛でたゆまない学術的探求心が十分にそして確実に伝わってくるし、知的で文学的なフランス文研究者の熱気さえも感じ取ることができるのである。それが本書を「気楽な読み物」に終わらせず、学術的良心に溢れる敬服すべき一冊にしているのである。
2008年1月19日 13時53分 [WEB担当]

2007年度秋季大会ワークショップ1

WS

1930年代シュルレアリスムの政治と美学

パネリスト:鈴木雅雄(早稲田大学)、初見基(東京都立大学、ドイツ文学)、永井敦子(上智大学、コーディネーター)

30年代ブルトンの自動記述論の政治的位置
永井敦子

 30年代前半のブルトンは、「革命的社会活動と直結しつつ、既存の政治活動には従属しない」創造行為の可能性を模索していた。しかしブルトンが評価するのは専らランボーやジャリなど遡及的文学モデルであり、同時代の政治体制やイデオロギーには否定と抵抗の対象ばかりで支持する対象は見出さず、フロイトにマルクスを接続させる試みも、被植民者や労働者の解放を自己の精神の解放の前提とすることでその逆ではなかった。結局彼の意図と行為は、政治的な有効性から見れば、思いこみの強い芸術家の無力な饒舌と非行動主義でしかなかったと言えるかもしれない。

 35年の講演「今日の芸術の政治的位置」でブルトンは、政治的行動と文学創造をめぐるこうしたジレンマの問題を論じている。この講演では「シュルレアリスム宣言」時から詩的創造の中心的方法であり、詩や芸術の解釈モデルでもあったオートマティスムに、41年のアメリカ亡命以降、彼の中心的なテーマのひとつとなった神話の問題が接続されてもいる。ここでブルトンは、超自我、自我、エス(ここではソワ)からなるフロイトの自我モデルを用い、オートマティスムは自我と超自我の歩き馴れた小路から離れて、広大で未開のソワの地帯へ下ろす測深鉛であると説明する。ブルトンは、オートマティスムはブルジョワ社会を支配する所有欲に通じる個性を放棄するための手段であり、それによって芸術家が手に入れるのは「集合的宝」の鍵であり、シュルレアリスム芸術は「個人的神話」ではなく、「集合的神話」の創造をめざすと説く。すなわちここでオートマティスムは、日本におけるシュルレアリスムの受容や批判の歴史にもその傾向が見られたような、深層の自己や抑圧された自己の解放、主観性追求の手段として捉えられているわけではない。さらにブルトンはここで、個人主義がソ連やファシズムの全体主義の歯止めにならないのは、それらが結局同じ根を持っているからだと指摘する。つまりブルトンは集合性を、個人主義と全体主義の間の第三の道として考えているわけではないのだ。

 こうしたブルトンの個人主義批判を、19世紀のトクヴィルなどからのフランスの個人主義批判の流れに位置づけることもできよう。特に個人主義と全体主義に同じ根を見る考えは、ブルトン以降の個人主義批判のなかでは、80年代の人類学者デュモンのそれとも共通性がある。一方ブルトンの言う「集合的」の意味するものは何か。個人でない複数性か、信条や教義や神話を共有する集団や共同体か、あるいは「人間」一般まで拡大して考えているのか。もしくは創作的共同作業や芸術作品の受容行為によってその都度出来するものか。この問題を考えるにあたっても、”individuel”と”collectif”の対立概念の系譜を確認する必要があるが、ここでは、バタイユが同時期に集団的なものに否定性を見る系譜に依拠して「ファシズムの心理構造」を説いたのに対して、ブルトンは個人を超えた集合的な心性や表象の存在に人間社会の自然なありかたを見る系譜に沿っており、35年のコントル=アタックの挫折には、ふたりのこのずれも関係しているように思える点を指摘しておきたい。

〈集合〉の両義性──W・ベンヤミン「シュルレアリスム」を中心に
初見 基

 運動としてのシュルレアリスムはドイツにおいて存在しなかった。1920-30年代,ヴァイマル文化という時代文脈で政治と芸術の交錯に限定してみるならば,政治カバレット,あるいはダダの流れをくむジョージ・グロスやジョン・ハートフィールドの営為に顕著なように芸術は社会批判のための政治的手段として使用されるのが主流だった。それに対してヴァルター・ベンヤミンはそれらとは別なかたちでの〈芸術の政治化〉の可能性を模索していた。その過程で彼はシュルレアリスムにも着目する。

 ベンヤミンのエセー「シュルレアリスム──ヨーロッパ知識人の最近のスナップショット」(1929年発表)はドイツ語圏での早いシュルレアリスム紹介になるが,ベンヤミン受容のなかでは「パサージュ論」の前段階として位置づけられることが多く,同時代のシュルレアリスムと渉りあったエセーそのものの独自性はこれまで必ずしも評価されてきていない。

 このエセーでベンヤミンは,シュルレアリスム的反抗(Revolte)を革命(Revolution)へと転化する可能性を語っている。その内実は明快なかたちで表わされていないが,〈陶酔の力〉によって理性的な〈個〉が〈集合〉へと解体してゆく点に積極的な意味づけがなされていた。

 その際にベンヤミンが参照しているシュルレアリスム作品はアラゴンの『パリの農夫』とブルトンの『ナジャ』が中心となるが,これらの作品に現われる〈開いた扉〉〈ガラスの家〉〈オペラ座パサージュ〉などの形象に彼は〈個〉の解体の契機を見いだしている。また,室内でありながら同時に街路であるという〈パサージュ〉のあり方にとりわけ触発され,後に「パサージュ論」として繰り広げられる構想の端緒がここにひらかれている。

 ベンヤミンのエセーのなかでは,シュルレアリストが試みた自動筆記について触れられていない。またこのなかで彼はシュルレアリスムの〈オカルト〉趣向には否定的に言及している。ここからはベンヤミンのシュルレアリスム評価がきわめて限定されたものであったと判断されるとともに,当時の時代的文脈のなかで,〈個の解体〉〈集合〉といった言説もまた非合理主義の暴力へと回収されかねない危うさを伴っている点にベンヤミン自身ある程度自覚していたことを推測させる。さらに後の「パサージュ論」のなかには,アラゴンの空間意識は無時間的であるという批判的な評価をくだした記述も見いだされる。

 本発表の枠を越えてはいるがこうした点をさらに考察してゆくならば,シュルレアリスム論以後のベンヤミンはナチズムなどの全体主義政治体制の否定的現実に直面するなかで,シュルレアリスム論で打ち出していた〈個〉の〈集合〉への解消という構想への一定の修正の必要性を感じていたことがうかがえる。そして最晩年にはその克服を〈歴史的追想〉のなかに賭けたと解しうるが,しかしまたそこでも同様な危うさは払拭されていないというのが発表者の見解である。 

マルクス主義(から)の解放――ニコラ・カラスと1935年以後のシュルレアリスム美学
鈴木雅雄

 1935年、フランスとソビエトの相互援助条約締結や、国際作家会議の不本意な結果などを背景に、シュルレアリスムは共産党との関係を清算し、第3インターの政治路線から離脱していくが、これによって逆説的なことに、マルクス主義の思想をより自由に援用できるようになったという側面もある。この局面を考えるために、30年代中ごろにパリ・グループと合流したギリシャ出身のシュルレアリスト、ニコラ・カラス(1907-1988)の理論書『発火地点Foyers d’incendie』(1938年)は、興味深い材料を提供してくれる。

 シュルレアリスムが思想的ディスクールと積極的に関わらざるをえなくなった30年代前半の代表的な理論書、ルネ・クルヴェルの『ディドロのクラヴサン』(1932年)などと比較しても、カラスによるマルクス主義の利用法は非常に自由なものである。一方で強引にフロイト理論を作りなおしつつ、他方ではその作り変えられたフロイトを用いて階級闘争史観をも作りなおしていると思えるからだ。カラスはフロイトの天才的な発見のなかで、「死の本能」という概念だけはまったく恣意的な仮説だと考える。当時の生物学の知識を援用しながら、単細胞生物は分裂を繰り返して永遠に生き続けるのであり、フロイトが「死の本能」と見なしたのは、実はこの不死の状態に帰ろうとする「回帰の本能」だったと主張するのである。他方カラスにとって社会革命とは、父性的権力を廃棄することによってオイディプス・コンプレックスそのものの消滅へと導くものなのだが、父性的な抑圧がなくなったとき上記の「回帰の本能」は母体内回帰願望という形で前面に押し出されるのであり、ここで新しい環境に適応しようとする「適応の本能」が勝れば革命は成功するが、「回帰の本能」が勝ればファシズム的退行に陥るというのが『発火地点』の結論であった。

 たしかにカラスの理論はしばしば荒唐無稽であり、さまざまな曖昧さや危険性をさえはらんでいる。だがこうしてシュルレアリスムは、社会革命によっても解消されない美学的問題の存在を強調するといった消極的な立場にとどまるのではなく、個人レベルで作動する欲望自体を(そしてある意味での美学的次元を)、社会革命のあり方を左右する要因として思考するための理論モデルを発明したともいえる。そしてこうしたことが可能になるのはシュルレアリスムのなかに、フロイトやマルクスを信奉し模倣するのではなく、理論家による理論創設の身振りを反復することで、既存のものとは異なったいわば自分用の理論を作り出さねばならないという要請が存在していたからではなかろうか。理論は理論である以上、何らかの普遍性を持たなくてはならないが、シュルレアリストたちはあくまでそこに「私」の烙印を押すのであり、自分の意識に現れてしまう直接的なものを否定することなしに理論とつき合おうとするこの意志こそが、30年代シュルレアリスムの常数であった。そしてマルクス主義のディスクールを自由に用いるための条件が与えられた30年代後半、この要請をもっとも極端な形で実践したのがニコラ・カラスだったのである。

2008年1月18日 13時55分 [WEB担当]

2007年度秋季大会ワークショップ2

WS

第一次世界大戦とモダニズム

 第一次世界大戦という出来事の意味を、感覚や精神の変容という観点から幅ひろく捉えることを目的として、ワークショップ「第一次世界大戦とモダニズム」を企画した。パネリストに迎えたのは宇佐美斉(フランス近代詩・京都大学名誉教授)、岡田暁生(西洋音楽史・京都大学)、河本真理(西洋近現代美術史・京都造形芸術大学)の各氏。コーディネーターは久保昭博(20世紀フランス文学・京都大学)が担当した。時間の都合で充分な議論はできなかったが、それぞれの報告をつきあわせることで、この時代を生きた芸術家の諸相がジャンルを横断するかたちで明らかになり、問題発見的なセッションになったのではないかと思う。以下はそれぞれの報告の概要である(報告順)。

戦争と恋 あるいはモダニズムの試練
宇佐美斉

 世紀の交替に立ち会った詩人アポリネールの文学には、社会生活全般にわたる革新に眼を見張る素朴な精神の輝きがうつし出されている。モダニズムを「新しさ」の探究と「直前の伝統」への反逆と要約するなら、彼はその精神を最も見やすい形で体現した芸術家の一人であった。大戦開始の前年に「キュビスムの画家たち」についての一連のエッセーを発表すると同時に、巻頭詩「地帯」の冒頭でモダニズムを謳歌する詩集『アルコール』を公刊し、引き続いて詩篇「窓」において「同時性の手法」を実践して、前衛芸術運動の先駆者としての相貌を鮮明にした。ただし象徴主義の影響下に出発したこの詩人の根底にあるものは、観念論と精神主義の支配による秘教性の陥穽から脱却して、日常的現実と具象性の共存へと向かう性向であった。実験的な試みとして評価される「会話詩」を支えたものは、むしろ広義のナチュリスムに隣接するこうした傾きであろう。大戦をくぐり抜けることによってアポリネールは、こうした革新性と本来の性向とにどのような折り合いをつけたのであろうか。

 第一次世界大戦下のアポリネールのもっとも生産的な執筆活動は、恋愛詩と恋愛書簡に向けられた。ルーとマドレーヌと呼ばれる二人の女性に宛てた書簡がその代表であるが、ここではルーに宛てた一通の手紙と一篇の恋愛詩のみを取り上げる。(1)1915年5月17日付の手紙。軍帽姿の詩人の横顔とやはり帽子を被った恋人の横顔が細かい文字の間から浮かび上がるように描かれている。Lettre(文字=手紙)は、愛の障害のメタファーであると同時に、愛の悦びをもたらすかけがいのない手段でもある。「生きる」ことと「書くこと」の転倒であり、作家の恋文があぶり出す「倒錯」の好例でもある。(2)1915年1月30日付の書簡詩は、激戦地シャンパーニュ地方への出動を間近にひかえた詩人が、南仏ニームの兵営から恋人へ宛てたものであり、死への予感に貫かれた恋人への悲痛な遺言の詩である。現実の愛を失うことに対する無意識の恐れと不安が背後に隠されており、いわば失愛と死に対する二重の抵抗が、血による祝祭によって自己を世界に遍在させる、という超越への願いとなって現れている。

 表現の虚飾をそぎ落して、いわばエクリチュールの零度に位する言葉によって紡がれるテクスト。書簡に含まれるカリグラムもまた、表現手段の革新というよりは、むしろ素朴な本然主義への回帰を思わせる。生の原形質そのものに立脚するこうした言葉の重みにくらべれば、詩人が前線で負傷した後に行った名高い講演「新精神と詩人たち」は、その昂揚した言説とはうらはらにどことなくうつろな響きを奏でる。アポリネールの晩年のポジションは、遺言詩と目される詩篇「かわいい赤毛の女」に、「旧いもの」と「新しいもの」、「秩序」と「冒険」の二極に引き裂かれて逡巡する魂のきしみとして明示される。《無限と未来の辺境で/つねに闘っている私たちを憐れんでやってくれ》。前線にあって未来を望み見ながら新旧二つの世界に宙づりになった詩人の姿、こうした視点から詩篇「地帯」をあらためて振り返ってみると、ユダヤ=キリスト教的な直線的時間に対する螺旋状の時間、つまりアンモナイトの紋様の夢が、全体の構造として浮かび上がってくるのである。

切断の時代―第一次世界大戦前後の美術の諸相
河本真理

 20世紀美術は、断片化と綜合という、相反する極の間を絶え間なく揺れ動いてきた。本報告では、「第一次世界大戦とモダニズム」というテーマを、主に造形芸術の観点から考察し、そうした美術の諸相を提示する。

 第一次世界大戦が美術に及ぼした影響、あるいは第一次大戦と美術との関わりということを考えると、美術の側の反応は様々であり、通り一遍ではない。往々にして、戦争の破壊がダダのニヒリズムを生み出した、言語の統一性やシンタックスを解体した、あるいは既成の美術の概念を揺さぶったと言われるが、第一次世界大戦という歴史上の切断面と美術史上の切断面は必ずしも一致しておらず、そうした傾向は第一次大戦以前にすでに始まっていた。オブジェを解体することによって、絵画や言語のシンタックスの解体に先鞭をつけたのはキュビスムや未来派である。

 とはいえ、コラージュが制作されるようになった1912年は、第一次大戦の前哨戦とも言えるバルカン戦争が勃発した時期に相当しており、ピカソは、バルカン戦争に関する新聞記事を貼り付けたコラージュを制作している。こうしたコラージュにおいて、ピカソがどの程度政治的意志を表明しようとしたのかということについて激しい議論が巻き起こった。しかし、このような議論の紛糾は、ピカソがコラージュを制作した当初、公に展示されておらず、きわめて限られた人しかそれを知らなかったという歴史的事実と、後世の美術史家に開かれている幅広い解釈の可能性という、全く違うレベルの話を明確に区別しないことから生じていると思われる。

 当時の芸術家たちの中には、第一次世界大戦に自ら志願して従軍し、戦死した者も多い。戦場の悲惨で過酷な経験を描いた画家としては、ジョージ・グロス、マックス・ベックマンやオットー・ディクスらがおり、文字通り戦争によって切断された身体を表象している。

 戦争によって破壊されることになる秩序を回復しようとする願望の表われとして、第一次世界大戦開戦後の1914年頃から、キュビスムや未来派に共通して、「秩序への回帰」と言われる傾向が見られるようになる。アヴァンギャルドが、古典に範を求めて、伝統的油彩画を描くようになるのである。

 第一次世界大戦は、「秩序への回帰」を促す一方、既成の芸術の概念を否定するダダの運動を加速させた。ダダイストのアルプは、紙片を地に撒き散らして、「〈偶然の法則〉によって配置されたコラージュ」を制作したが、ここでは、芸術家によるコントロールへのアンチテーゼとして、偶然を意識的に用いるという戦略的な方法が取られている。

 第一次世界大戦は、機械・速度・ダイナミズムという未来派の美学を具現化した全体戦争であると同時に、世界の経験を断片化していくものでもあった。「断片化」による喪失を埋め合わせるべく、統一性と全体性を希求するという「綜合芸術作品」の理念が、この時代の芸術に重要な位置を占めるようになる。「綜合芸術作品」の理念自体は、19世紀半ばにヴァーグナーが提唱したものだが、それは未来派、ダダ、バウハウス構成主義、クルト・シュヴィッタースの「メルツ綜合芸術作品」などに形を変えて受け継がれ、第一次世界大戦以降も多くの芸術家を魅了し続けたのである。

戦争小説と口語・俗語文体

久保昭博

 20世紀初頭の小説を特徴付けた現象のひとつに、俗語や口語文体の積極的な導入がある。サンドラール、セリーヌ、クノーらモダニズムの影響下にある作家によって発展させられたこの文体は、美学的な問題であるのみならず、社会的、政治的な意義を持っていた。まずそれは、方言のミメーシスとなるとき、地方主義と結びつく。スイス、ヴォー州の言語で書いたラミュ、プロヴァンス出身のジオノがその代表格である。次に、口語・俗語文体は、民衆の表象と結びつく。そして支配階級によって規範化された書き言葉という概念に対置されることで、イデオロギー的な対立構図が生ずる。最後に、この文体は、「生の自発的発露」として考えられる。こうした思想をひろめたのがシャルル・バイイやジョゼフ・ヴァンドリエスといった言語学者であり、彼らはクノーやサンドラールらの理論的支えとなった。こうして(民衆的)口語が言語活動の本来的な姿とされることにより、文学的な賭け金となる。

 ところで興味深いのは、口語・俗語文体の擁護者が、しばしば第一次世界大戦を主題にした戦争小説を書いていることである。この点で最も注目すべきは、1916年に出版され、驚異的な売り上げを記録すると共に戦争小説の典型となったアンリ・バルビュスの『砲火』である。バルビュスは自らの従軍体験をもとにこの小説を手記の形式で書いたが、そこで文学的規範に背馳する口語・俗語表現を敢えて用いることで「真の兵士の姿」を表象する意図を、語り手の「私」に強調させている。こうしてたとえば、リール出身の炭坑夫である一兵士の方言が、異様なほど忠実に再現されることとなるのである。

 バルビュスとともに、口語・俗語文体はその民衆表象と地方主義に加え、革命と連帯という射程を持つようになったのだが、彼がこのような言語意識を抱くに至った一要因として、大戦が作り出した特異な言語状況があるだろう。その現れとして戦争開始後次々に出版される「兵士の俗語」辞典を指摘することができる。これらは、帰還兵たちの話す言葉があまりに独特で理解不能という状況に直面した物書きたちによって、愛国心と好奇心とが混ざった動機から編まれたものだが、そこに並ぶ方言、外国語、兵器や兵隊生活にまつわる隠語から、「塹壕の共同体」ではクレオール的とも言える言語状況が生じていたことが知られる。バルビュスは、これを描くことなしに戦争文学のリアリズムはあり得ないと認識したのである。

 だが、第一次世界大戦が文学にもたらした衝撃はそれだけでない。逆説的なことに、大戦を描く文学作品が量産される一方で、兵士たち自身はそれらの中に自らの姿を認めず、沈黙するばかりだったと言われる。ジャン・ポーランが「言語の病」と呼んだこの沈黙が示す言語不信は、大戦中に青年期を迎えた作家に共有されているが、このように生が言語から乖離する様を、生の発露と見なされる饒舌な口語・俗語文体で表現するという逆説を正面から引き受けたのが、セリーヌであった。『夜の果てへの旅』の口語・俗語文体から発散する強烈なアイロニーは、生の発露ではなく、第一次世界大戦によって開示された巨大な死に飲み込まれそうになる人間の恐怖、憎しみという「情動」の産物である。

ストラヴィンスキー『兵士の物語』と亡命音楽のはじまり?
岡田暁生

 ストラヴィンスキー《兵士の物語》(台本ラミューズ)は、1917年から作曲が始まり、第一次世界大戦終結直前の1918年9月29日にローザンヌで初演された。大戦当時スイスに亡命していたストラヴィンスキーのこの音楽芝居は、彼の世界大戦経験の最も端的な刻印と見なすことができる。世界大戦前にパリで初演された《火の鳥》(1910年)、《ペトルシュカ》(1911年)、《春の祭典》(1913年)で音楽界の寵児となったストラヴィンスキーであるが、《兵士の物語》をこれら三大バレエから区別するのは、色彩の拒否(=モノクロームな響き)であり、構成原理としての反フィナーレ性(=音楽の円滑な流れの意図的な切断)である。

 《兵士の物語》は、ナレーションおよび三人の俳優および七人の奏者(ヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ファゴット、コルネット、トロンボーン、打楽器)から成る。これはミニシアターであって、ストラヴィンスキーが構想したのは従来のオペラと一線を画した、旅回りの一座の出し物のような演劇だった。オペラが急激に没落し始めるのは大戦後の1920年代の音楽史の特徴の一つであり、これは19世紀における音楽文化の担い手であった上流ブルジョワの没落と関係していたが、《兵士の物語》で意図されている色彩感を欠いた(いわばチンドン屋のような)「素寒貧な響き」は、ブルジョワ的オペラ的音楽文化の「奢侈」からの訣別であった。

 《兵士の物語》のもう一つの特徴はコラージュである。ここでストラヴィンスキーは、ほぼ全曲を「ワルツ」「行進曲」「コラール」といったステレオタイプな様式の継ぎ接ぎで作った。音楽が有機的な流れを作り高揚していく代わりに、誰もがいつかどこかで耳にしたことのある色々な「決まり文句」ばかりが、互いに意味ある脈絡を形成することなく貼り付けられているわけである。そのさまは外国人がどこかで聞き覚えた片言ばかりを並べ立てて何かを話そうとしている様子を連想させ、第一次大戦前のストラヴィンスキー最大の売り物であったロシア風民族色がまったくここでは現れないことを考え合わせると、《兵士の物語》は一種「亡命者の音楽」であるといえる。

 しかもここで並べられるのは、歴史的出自がまったく異なる諸様式である。タンゴは19世紀末の南米で生まれたジャンル、ワルツは19世紀ウィーンで流行、コラールはバロック時代のプロテスタント・ドイツの聖歌であって、本来一つの曲の中で同居しているはずはない。つまり《兵士の物語》においては、歴史上の諸様式がその歴史的地域的文脈や含意を解体され、単なる音響マテリアルとして処理されている。この「意味」の拒否は、同時代のロシア・フォルマリズムの文学理論や(ストラヴィンスキー自身も認めていたように)ジョイスの『ユリシーズ』、あるいはコクトーによるギリシャ悲劇の翻案などとも共通する、1920年代のストラヴィンスキーの創作の特徴である。

2008年1月17日 13時58分 [WEB担当]

2007年度秋季大会ワークショップ1

WS

中世研究における電子テクストの現状と将来性―中世南仏語データベース(COM)刊行によせて

パネリスト:Peter Thomas Ricketts(ロンドン大学・バーミンガム大学名誉教授),後藤斉(東北大学),高名康文(福岡大学),瀬戸直彦(早稲田大学・コーディネーター)

COMの有用性の例証
後藤斉

 リケッツ氏に対しては、COMによって、中世南仏語のテキストを網羅的に集成し、電子化して研究者に公開し、しかも、使いやすい検索プログラムを添えていただいたことに深く敬意と感謝の念を表したい。このようなテキスト・データベースは他言語にも例はなく、中世南仏語の研究のレベルの高さを示すものである。

 COMの特長についてはリケッツ氏から詳しく説明があったが、私からは、別の例を挙げることによってその有用性を示すことを試みてみたい。今はたまたま秋であるので、「秋」を取り上げることにしよう。

 周知のように、日本の詩歌では、千年以上にわたって、四季のそれぞれが題材として好んで取り上げられたが、秋は特に好まれていたと言えるのではなかろうか。紅葉や秋の夕暮れを歌った歌はすぐに思い浮かぶ。トルバドゥールの詩ではどうであったろうか。トルバドゥールの詩で春がよく歌われていたことは知られている。復活祭の季節、四月や五月などは明らかに好まれた題材であった。秋はトルバドゥールではどのように扱われていたのだろうか。

 このようなことは、COMを使えば容易に調べることができる。COM1およびCOM2の範囲でautomneに当たる語を検索するには、すべての屈折形と書記上の変異体を選択するように注意しなければならないが、autom, automp, autompne, auton, autons, autum, autun, autuns の8語形となる。これらの用例は11しかなく、そのうち6例は BRV、すなわちたまたまリケッツ氏の校訂による Le Breviari d'amor de Matfre Ermengaud からのものである。他の3例はマイナーな散文テキストのものであり、COM1のトルバドゥールの詩には次の2例しかない。

PC 434 016 002 de ver, d'estiu, d'autompne, e d'ivern/,

PC 434 016 014 autompne, tro al comensar d'ivern/;

PC番号から分かるようにこの2例は同一の詩に属する。002行に現れているように、この詩は四季のそれぞれを歌ったものであって、特に秋のみを扱ったものではない。また、作者はCerveri de Gironaというカタルーニャの詩人であり、中心的なトルバドゥールとはいえない。

 トルバドゥールの詩において「秋」の語が現れるのは、これだけである。秋はトルバドゥールにおいて決して好まれる題材ではなかったことが、これによって示された。

 なお、「11月」(novembre, novembres)の用例も COM1, COM2を合わせれば11例あるが、COM1には 1 例しかなく、上記のCerveri de Gironaの詩に現れるだけである。「四月」(abrilなど)や「五月」(maiaなど)の多さとは比べ物にならない。このことも、秋が好まれなかったことを示している。

 一方、冬もまた寒い、いやな季節とみなされていたようであるが、冬への言及は決して少なくない。hivern, ivern, iverns, ivernz, ivers, yvern の語形を合わせると、COM1において55の用例がある。秋とは明らかな違いがある。

 以上の検索の試みによって、私なりにCOMの有用性を具体的に示しえたものと考える。

コーパスの不均一性の問題
高名康文

 COM2は、刊行されている校定本を元データとしているため、ある作者の全集が存在しない場合には、別々の写本を底本にして別々の方法で校訂されたテクストが入力されているということもある。このようなコーパスの不均一性について質問をしようとしていたが、あらゆる写本を入力したCOM4の出現により、この問題は解決されることが分かった。

 膨大で先が見えない計画であるのかと思いきや,あと数年で完成をするということである。心より敬意を示し、完成を心待ちにしている。

電子資料の有効性

瀬戸直彦

 2001年にCOM1(Concordance de l’occitan médiéval 1, Turnhout, Brepols)が刊行され,トルバドゥールのテクストすべてが簡単に参照できるようになった。2005年にはCOM2が出て,これにはCOM1の内容に加えて,韻文による中世南仏語の文学作品すべてが収録された。げんざい編纂中のCOM3は,さらに百科全書などオック語の散文作品すべてを対象とする予定であり,さらに将来的には,各写本の収録作品をそのまま復刻するCOM4も計画されている(2007年12月のリケッツ氏からの連絡によれば,必要な経費に深刻な問題が生じているらしい)。

 今回のワークショップでは,このCOM全体を構想し,編纂されたピーター・T・リケッツ教授に,壮大な規模のこの計画を実行に移された経緯と意義,ならびに,じっさいの利用法を初めに語っていただいた。また,COM3とCOM4のデモ版ともいうべきものを用いて,じっさいにパソコンを操作しながら示していただいた。スクリーンを通して中世の分野での電子テクスト(データベース)の有効な活用のしかたが,オック語に親しんでいない参加者にも具体的に理解いただけたのではないかと思う。

 私は電子資料については,貧弱な知識しか備えていないが,このワークショップをつうじて理解できたことを以下に,私なりにまとめておきたい。

(1)中世オック語文学のinstruments de travailとしては,従来,19世紀のFrançois J.-M. RaynouardによるLexique roman(1836-1845, 6 vols.)と,それを補完するEmil LevyによるProvenzalisches Supplememt-Wörterbuch(1894-1924, 8 vols.),そして後者による袖珍版Petit dictionnaire provençal-français(1909),そしてFEWしかほとんど存在していなかった。近年DOM (Dictionnaire de l’occitan médiéval, Tübingen, Max Niemeyer, 1996-)の刊行が始まっているものの,まだ5分冊(a-airienc)までで刊行は遅々として進まない。そのような状況のなかで,辞書とは性格を異にするとはいえ,このCOMの精力的な刊行は驚嘆に値する。

(2)COMは,テクスト中の行数,césure,固有名詞の指示が明確で,脚韻やrime intérieureなど詩法の研究にも威力を発揮する。複合検索も可能である。この種の試みは,フランス文学の各分野のなかでも先駆的といえよう。

(3)校訂版のapparatus criticusから各写本の読みを正確に復元するのは,写本の数が多ければ多いほど困難になる。COM4にいたって,各写本の読みがたちどころに画面上に現れるとしたら,ヴァリアントとして埋もれていた語彙の研究に便利である上に,各写本の示す独自の文脈が明らかになり,テクストを解釈するのにはかり知れない有効性を発揮するであろう。ただし句読点や略字の処理,写本の体裁の指示など,édition diplomatique をどこまでinterprétativeなものとするかは微妙な問題であろう。

(4)パネリストの後藤先生がCOMを用いて明らかにしてくださったように,たとえば「秋」という語彙が中世南仏語では乏しいことが,使用例の数によって明瞭となる。ただしorthographeの確立していない中世のテクストの場合は,可能性のある綴り字を網羅するためには経験を必要とするし,COMの備えるいくつかの約束ごとに習熟する必要があるだろう。