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2008年2月25日 14時45分 [WEB担当]

西山雄二『異議申し立てとしての文学』

書評

 

 異議申し立てとしての文学―モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性

作者: 西山雄二 
出版社/メーカー: 御茶の水書房 
発売日: 2007/09 
メディア: 単行本 
クリック: 10回 


評者:郷原佳以

 20世紀を生き抜いた文学者、モーリス・ブランショは、30年代に右派の政治記者として筆で身を立てるようになってから、いわば60余年にわたって自らの署名を通して公的人物であり続けた。その活動には、当然のことながら様々な側面がある。なるほど誰にとってもまず想起されるのは文学者としてのブランショであろう。とりわけ多くの人にとっては、文学を「死」との連関において思考することを提起した難解な文芸批評家であるだろう。そしてその文学理論は、公の場に顔を出すことを拒否した彼自身の姿勢と通底するものと感じられてきたことだろう。あるいはまた、物語的装飾を削ぎ落とした彼の虚構作品も、自身の文学理論に忠実なものと思われてきたかもしれない。しかしブランショの活動には、「文芸批評家」と「作家」という肩書きには収まりきらないものもあった。上述のように出発点は政治記者であったのだし、58年から68年、すなわちアルジェリア戦争から5月革命に至る期間には、志を同じくする文学者たちと共闘して数々の政治的な活動を行った。では、「文芸批評家」、「作家」としての彼の姿勢が相互に一貫した印象を与えるものだとしたら、それと彼の政治的な実践との関係はどうなっているのか、そこには果たして内在的な一貫性があるのだろうか。このような疑問はもっともなものであろう。にもかかわらず、従来、「文学的ブランショ」の研究と「政治的ブランショ」の研究はあまり相性がよいとはいえず、両者は切り離されるか、接続が試みられた場合にも、文学論のうちに政治的立場の残響を聴き取るといった反映論的なものが多く、説得的な説明は稀であった。そのような状況を、一種の発想の転換と明快な理路によって打開してみせたのが本書である。

 本書は2006年に一橋大学に提出された同題の博士論文を元にした、3部構成11章(および序論、結論、補章1章)から成る浩瀚なブランショ論である。3部の主題は「孤独」(全1章)、「友愛」(全5章)、「共同性」(全5章)であるが、著者によればこれらはそれぞれ一人称、二人称、三人称という「人称世界」(326頁)に対応している。コーパスとしては、第1部では文芸批評、第2部では「友愛」概念の錬成が見られるバタイユ、レヴィナス、アンテルムらに関わる60年代のテクスト、第3部では政治的活動や思想が跡づけられる30年代から68年に至るテクストが扱われている。さらにこの「三幅対」は「横糸」として設定されており、「これら三極構造を縫い合わせる縦糸として、「異議申し立て(contestation)」の運動」(vi頁)というモチーフが選ばれている。

 本書の魅力は、何よりも、ブランショ研究に数々の有意義な視角と知見をもたらす本格的な研究書でありながら、著者ならではの尖鋭な問題意識に基づいた「文学と政治」という普遍的なテーマ設定によって、専門家のみならず幅広い読者層に訴える力を備えていることである。しかし、文学理論と政治的実践の内在的な連関を探るという困難な課題に取り組みながら、本書が同種の試みと一線を画して説得力を保持しえているのはなぜか。明晰な文章、各章の緊密な連携による確実な構成もさることながら、それは、軸となるブランショの文学理論の理解が実に的確で、ぶれがないからだと思われる。というのも、文学者の文学理論と政治的活動の接点を求める場合、後者の解明に重心が置かれるためか、前者の方はえてして矮小化されがちである。しかし本書の場合には、まず第1部においてブランショの文学理論の核心――「文学空間」において「言語活動と死が直交する」(iii、30、323頁等)複雑なありようをめぐるもっとも難解な部分――に丁寧な解説が施され、そして「政治的なもの」に関わる第2部以降の各章はそのつど第1部に照らし合わせながら進められてゆくため、全体として文学研究者にとっても信頼に足る議論となっているのである。そしてこの構成にも顕著に現れているのが、本書の鍵を握っている発想の転換である。

 すなわち本書は、ブランショの30年代の国粋主義的時評を告発しようとする試みの多くがそうであるように、政治的立場が先にあってそこから文学理論が生まれてくるのだという立場を採らない。そうではなく、いってみればつねに文学理論が先にあるのであって、30-40年代における「革命」の問題系も、ユダヤ人大虐殺をめぐる姿勢も、アルジェリア戦争やド・ゴールへの反対運動も、あるいはまた68年5月革命への参画も、すべてはその文学理論に基づく文学的活動の一環であるというのが、本書の底に流れる主張なのである。

 したがって、読者は本書を読みながら、「文学」が徐々に書物の外に飛びだしその射程を広げてゆくのに気づくはずだ。たとえば本書では、アルジェリア戦争への反対を訴える『7月14日』誌へのブランショの協力、「アルジェリア戦争における不服従の権利宣言」(通称「121人宣言」)起草への彼の尽力、その延長線上で彼が60年代前半に準備した『国際雑誌』企画、そして68年5月に彼が発足させた「学生-作家行動委員会」、要するに、2003年に刊行された『政治論集』(日本語訳2005年)にまとめられた文書や活動がすべて文学理論との関係性において位置づけ直され、文学的活動として分析されている。なぜなら本書によれば、「書物の不在」を見極めたブランショは、「日刊紙、週刊誌、書物、宣言文やアピール文[…]と様々なエクリチュールの形態を経験」することで、「自らの文学観にしたがって、文学がいかなる形態を与えられて存在するべきかを、その都度、模索し続けた」(iii頁)からである。そしてそれら「様々なエクリチュールの形態」になおも一貫性が認められるのは、まずもって、それらが絶対的な――すなわち、自らをもたえず問いに付し続ける――「異議申し立て」として存在しているからである。

 「文学」のこのような変容と遍在のありようを、著者は「文学空間の可塑性」(30頁)と名づけ、30年代から68年に至る時空間のなかに浮かび上がらせてゆく。しかしその探索は、「あとがき」を読めば分かるように、「異議申し立てとしての文学」が現代世界にとってますます必要となっているという著者の痛切な思いに裏打ちされている。非人称的な「文学空間」を思考し抜いたブランショから出発してほとんど論理的飛躍を感じさせることなく現実的な諸問題へと着地する、本書はかくも大胆な試みを成し遂げた稀有な「文学論」である。