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2023年度秋季大会 ワークショップ

  

もやもやのひらく地平(Sur la positivité de l’ambigu)

   

コーディネーター・パネリスト:阿尾安泰(九州⼤学名誉教授)

パネリスト:佐藤典⼦(九州⼤学),鈴⽊隆美(福岡⼤学),Charlène CLONTS(九州⼤学)

  

以下のリンクから音声を聞くことができます。

もやもやという戦略の開く地平

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2023年度秋季大会 ワークショップ

  

Les Revues littéraires sous l’Occupation allemande

   

コーディネーター・パネリスト:Shinya SHIGEMI (Université de Nagoya)

パネリスト:Claude Pierre PÉREZ (Aix-Marseille Université), Gil CHARBONNIER (Aix-Marseille

Université)

  

以下のリンクから音声を聞くことができます。

Les Revues Litteraires sous l'Occupation allemande

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2023年度秋季大会 ワークショップ

  

異種混淆的⽂芸誌としての『レフェメール』

   

コーディネーター・パネリスト:⼭⼝孝⾏(ECC 国際外語専⾨学校・⼤阪公⽴⼤学客員研究員) 

パネリスト:中⼭慎太郎(跡⾒学園⼥⼦⼤学),森⽥俊吾(奈良⼥⼦⼤学),横⽥悠⽮(三重⼤学)

  

以下のリンクから音声を聞くことができます。

異種混淆的⽂芸誌としての『レフェメール』

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2023年度春季大会 ワークショップ

  

散乱するジュネ―詩人・聖者・歴史家

   

コーディネーター・パネリスト: 岑村傑(慶應義塾大学)

パネリスト:朝吹亮二(詩人・慶應義塾大学)、澤田直(立教大学)

  

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散乱するジュネ

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2023年度春季大会 ワークショップ
  

テオドール・ド・バンヴィル生誕200周年にむけて

  

コーディネーター・パネリスト: 五味田泰(北星学園大学)

パネリスト:松村悠子(早稲田大学)、塚島真実(関西大学)

  

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テオドール・ド・バンヴィル生誕200周年にむけて

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2023年度春季大会 ワークショップ

   

スイス・ロマンド文学へのまなざし

  

コーディネーター・パネリスト:笠間直穂子

パネリスト:正田靖子(慶應義塾大学)、平林通洋(日仏翻訳・通訳者)、 篠原学(大阪大学)

  

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スイス・ロマンド文学へのまなざし

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2022年度秋季大会 ワークショップ

  

 Enseigner (par) la littérature dans les cours de français à l’université

   

コーディネーター: Éric Avocat (大阪大学)

パネリスト:Marie-Noëlle Beauvieux(明治学院大学)、Yosuke Fukai(東北大学)、Justine Le Floch (京都大学)

  

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Enseigner (par) la littérature dans les cours de français à l’université

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2022年度秋季大会 ワークショップ

  

La littérature et le féminicide

   

コーディネーター: Aya UMEZAWA (富山大学)

パネリスト:Rinpei MANO(南山大学)、 Kyoko MURATA(大阪府立大学)、Marc RENNEVILLE CNRS

      

以下のリンクから音声を聞くことができます。

La littérature et le féminicide

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2022年度秋季大会 ワークショップ

サント=ブーヴィアーナ作家研究からサント=ブーヴ像を再構築する

 

コーディネーター:池田潤(白百合女子大学)

パネリスト:片岡大右(東京大学)、鈴木和彦(明治学院大学)、松村博史(近畿大学)

  

以下のリンクから音声を聞くことができます。

サント=ブーヴィアーナ

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2022年度春季大会 ワークショップ1

日本の学生が選ぶゴンクール賞総括と展望

コーディネーター:久保昭博(関西学院大学)
パネリスト今井勉(東北大学)、小川美登里(筑波大学)
加藤靖恵(名古屋大学)、倉方健作(九州大学)

以下のリンクから音声を聞くことができます。
2022春WS1

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2022年度春季大会 ワークショップ2

北米大陸におけるフランス語文学ケベック文学の現在

コーディネーター・パネリスト小倉和子(立教大学)
パネリスト:佐々木菜緒(白百合女子大学)、河野美奈子(立教大学)

以下のリンクから音声を聞くことができます。
2022春WS2

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2021年度秋季大会ワークショップ1

未来のイヴ』を再読する――十九世紀フランス哲学・科学を起点として

コーディネーター:福田裕大(近畿大学)
パネリスト:野田農(早稲田大学)相澤伸依(東京経済大学)
上尾真道(京都大学)中筋朋(京都大学)


こちらのリンクから、音声をお聞きいただけます。
2022WS1

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2021年度秋季大会ワークショップ2

Témoignage(s) de littérature――文学は何を証言するのか?

コーディネーター:‚辻川慶子(白百合女子大学)
パネリスト:Judith Lyon-Caen (EHESS)Dinah Ribard (EHESS)
嶋中博章(関西大学)、杉浦順子(広島修道大学)

こちらのリンクから、音声をお聞きいただけます。
2022WS2

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2021年度秋季大会ワークショップ3

La didactique de lalittérature de langue française en licence au Japon

コーディネーター・パネリストMarie-Noëlle Beauvieux広島大学
パネリストÉric Avocat大阪大学Raphaëlle Brin京都大学Yosuke Fukai東北大学

こちらのリンクから、音声をお聞きいただけます。2022WS3

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2021年度春季大会ワークショップ1

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2021年度春季大会ワークショップ2

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2021年度春季大会ワークショップ3

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2021年度春季大会ワークショップ4

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2021年度春季大会ワークショップ5

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2020年度秋季大会ワークショップ1

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2020年度秋季大会ワークショップ4

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2020年度秋季大会ワークショップ5


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2019年度秋季大会ワークショップ1





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2019年度秋季大会ワークショップ2



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2019年度秋季大会ワークショップ3




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2019年度春季大会ワークショップ1



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2019年度春季大会ワークショップ2


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2019年度春季大会ワークショップ3


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2019年度春季大会ワークショップ4


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2019年度春季大会ワークショップ5


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2019年度春季大会ワークショップ6



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2018年度秋季大会ワークショップ1 


見えるもの、見えないもの―19 世紀幻想文学再考―

コーディネーター・パネリスト:梅澤 礼(富山大学)パネリスト:中島 淑恵(富山大学)、足立 和彦(名城大学)


フランスにおける幻想文学は、1950 年代のカステックス、60 年代のカイヨワの研究によって注目された。その流れを決定的なものにしたのは、幻想とは「怪奇」と「驚異」の間の「ためらい」であるとしたツヴェタン・トドロフであった。しかしそのトドロフも2017 年に亡くなり、2018 年度刊行の LITTERA 第 3 号においてピエール・グロードは、トドロフの理論がいくつもの問題点を抱えていることを指摘している。そこで本ワークショップでは、発表以来50 年を迎えようとするトドロフの理論をいったん保留し、我々自身の視点から幻想文学を読み直すことを試みたい。具体的には、19 世紀幻想文学を代表するメリメ、ゴーチエ、モーパッサンの作品を取り上げ、主に「視覚」の観点から幻想の表象を考察する。それぞれの作品において、不可解なものはどのように知覚されるのだろうか。梅澤はメリメの『煉獄の魂』が、見える恐怖だけでなく見えない恐怖によっても支配されていることに注目し、この「視覚」以外で感じられる事物によって作品世界の整合性がどのように保たれているのかを考える。中島は、ゴーチエの『死霊の恋』において、死霊との直接的接触(触れられる、交わる、血を吸われるなど)によって喚起される違和感について考察することから、幻想文学における幻覚について検討を加えたい。そして足立は、モーパッサンにおいて「見えないもの」がなぜ恐怖の対象となるのか、「見えないものを見る」というアポリアは何を意味するのか、『オルラ』に至る作品を通して考えることで、実証主義の時代の恐怖を分析する。幻想は実に幅広い主題である。会場との活発な意見交換を通して、幻想文学を再考する可能性と意義について、多くの研究者と認識を共有できれば幸いである。

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2018年度秋季大会ワークショップ2

音声





近代フランス美術と文学―その照応と対立のダイナミズム

コーディネーター・パネリスト:津森 圭一(新潟大学)パネリスト:太田 みき(明治学院大学)、熊谷 謙介(神奈川大学)、畠山 達(明治学院大学)



姉妹芸術と呼ばれる文学と絵画については、従来その一致する点に強い関心が寄せられてきた。一方で、両者の照応のみならず対立を含む相互作用のダイナミズムについて十分に議論されてきただろうか。本ワークショップでは、フランス 19 世紀前半から 20 世紀初頭にかけて、美術批評、小説、詩、日記、書簡などのメディアで「美」が語られるメカニズムを、文学研究と美術史研究の両方の立場から双方向的に再考する。とくに、当時文学が美術批評をその下位ジャンルとして取り込む一方で、美術が文学の影響に抵抗を見せるという現象に着目しつつ、ロマン主義から象徴主義までの芸術潮流において「諸芸術の交感」の言説がいかに変化していったかを検証したい。太田は詩に依って絵画の価値を主張する伝統的理論を確認した後、時間芸術と空間芸術を明別したレッシング以降、絵画独自の「語り」を追求する過程で、物語画がどのように変質していったかを、ロマン主義、アカデミスム、象徴主義から事例を挙げて考察する。畠山は、まず19 世紀の中等教育における詩と絵画の関係に着目し、規範の生成と伝統の継承という問題を確認する。次に、ボードレールがその規範/伝統にどのような変革をもたらしたか、詩作品及び美術批評などを通して複層的に考察してみたい。熊谷は「象徴主義」的言説の囲い込みに対して美術が抵抗を示したことを、オーリエの美術批評「絵画における象徴主義」を事例にして確認するとともに、その文学的バイアスに秘められた象徴主義再編の可能性を示唆する。津森は小説家プルーストと画家ボナールがともに、ある「感覚」体験を作品で再現するときには必然的に時間差が生じ、「思い出」(souvenirs)の力に頼ることに自覚的であったことに着目する。

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2018年度秋季大会ワークショップ3

音声




転位するディドロ(Diderot en déplacement)―ディドロの政治・道徳論の新たな読みに向けて


コーディネーター:逸見 龍生(新潟大学)パネリスト:王寺賢太(京都大学)、イ・ヨンモック(ソウル大学)、シャルル・ヴァンサン(京都大学)

ディドロという思想家・作家をめぐる近年のアプローチは、ますます多岐におよぶものとなった。それに伴い、従来の解釈におけるディドロ像も大きな修正を迫られている。このワークショップでは、日韓仏の研究者たちを招き、それぞれの専門的立場からディドロのテクストの読みを提出し、2013 年のディドロ生誕 300 周年から 5 年後の本年、現代のディドロ解釈の地平をあらためて捉え直すことにしたい。中心となるのは、ディドロにおける政治・道徳論である。従来、たとえばルソーに対して政治的急進性において〈退行的〉とすらしばしば評されてきたこの百科全書派の政治的思考は、果たして真にそのようなものだったのか。テクストとコンテクストの周到な読みを通じて、あるいはこうした観点とは異なる相貌が現れてきはしないか。パネリストは後期ディドロ政治思想、特に『両インド史』の解読を進めてきた王寺賢太(京都大学)、やはりディドロの政治思想、特にその18 世紀ジャンセニスムの神学政治論的言説との関係の分析から出発、近年では哲学的コントの新たな読みの可能性へと研究領域を進めてきたイ・ヨンモック(ソウル大学)、後期ディドロの倫理思想をその晩年のセネカ論(『クラウディスとネロの治世』)を中心に解明しようとしているシャルル・ヴァンサン(京都大学)の三名である。発表はすべてフランス語で行われる。会場との活発な議論を期待したい。

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2018年度秋季大会のワークショップ4




マラルメと20世紀の詩人たち―没後120年目に振り返る―

コーディネーター・パネリスト:坂巻 康司(東北大学)パネリスト:中山 慎太郎(学習院大学)、太田 晋介(大阪大学)


 2018年は象徴主義詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)の没後120年目に当たる。この詩人が20世紀全体に亙って、文学・哲学・音楽を代表する人物たちに多大な影響を与えたことは夙に知られている。仏文学会ではすでに2014年の秋季大会において『哲学者が語る複数のマラルメ像』というワークショップを開催し、デリダ、ドゥルーズ、ランシエールといった20世紀を代表する哲学者たちに与えたマラルメの影響を検証したが、今回は詩人たちの創作活動そのものに与えたインパクトを検証してみたい。マラルメと20世紀思想との関連性は比較的明らかになっているものの、詩人たちの創作自体にマラルメの詩学が直接的にどのような影響をもたらしたのかという点に関しては、これまでの研究において、必ずしも詳らかにされたとは言えないからである。そのような観点から、本ワークショップは以下のように進めて行く。まず、坂巻は、マラルメに対する批判的姿勢から詩作を開始したイヴ・ボヌフォア(1923-2016)の試みの当否を改めて検証する。続いて中山は、ボヌフォアと同様に長年月に亙って詩を書き続けて来たジャック・デュパン(1927-2012)の詩作にマラルメからの影響があるのかどうかを探る。最後に太田は、全く独自の境地に辿り着いたと思われるフランシス・ポンジュ(1899-1988)の詩作とマラルメの思想を比較検討する。マラルメという19世紀後半を代表する詩人が、20世紀から現代に至るフランス詩の流れの中でどのような位置を占めるのかということを改めて問うことは、近現代フランス文学の全体像を見極める上で欠かすことのできない作業であろう。当日は会場からも刺激的なご意見を伺うことが出来ればと考えている。

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2018年度秋季大会のワークショップ5


ラスキンとフランス

 コーディネーター:和田 恵里(青山学院大学)パネリスト:横山 裕人(成蹊大学)、加藤 靖恵(名古屋大学)、荻野 哉(大分県立芸術文化短期大学)


 2019 年はジョン・ラスキン生誕百年に当たる。フランス文学に関わる者たちの間では、マルセル・プルーストが小説家としての地盤を築く過程でこの作家から深く影響を受けたという文脈で語られることが多いのだが、今回このワークショップでは、一旦プルーストとの関係という枠組みを外すことで、フランスの社会、文化、芸術とラスキンがどのように関わったのかをあらためて問い直すことを目的とする。横山は、フランスにおけるラスキン受容の変遷を書誌的に辿り、ラスキンの思想がどのように解釈され、議論や批判の対象となったか、あるいは社会の中に吸収されていったかを検証するための基本的データを呈示する。従来重視されてきた絵画論、建築論のみならず、労働運動や環境保護といったテーマも視野にいれつつ、フランスにおけるラスキン受容の多様性と意外な広がりを示したい。荻野は、『モダン・ペインターズ』や『ヴェネツィアの石』といった前期の代表的著作から、後期の美術講義にいたるラスキンの芸術観の変遷を、想像力をめぐる議論などを手がかりにしつつ考察する。その際、19 世紀後半のイギリスで展開した唯美主義(運動)の内実、およびラスキンとその動きとの関係を視野に入れることによって、同時期のフランスの思想との差異も示したい。加藤は、ラスキンといういわば異国人の目を通して再発見されたフランスの中世カトリック美術(建築と彫刻)に注目する。宗教、偶像崇拝、中世の復権をキーワードとして、フランスにおける図像学的貢献という視点からラスキンが果たした役割を、アミアン、リジューなどの教会建築の映像を交えて明らかにした上で、仏訳『アミアンの聖書』の序文に展開されるプルーストのラスキン論を再考察する。

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2018年度秋季大会・ワークショップ1


パンテオンと作家たち
竹内修一 (コーディネーター、北海道大学)
福田 [寺嶋] 美雪 (獨協大学)
 田中琢三 (お茶の水女子大学)  
  パリの第五区、サント・ジュヌヴィエーヴの丘の上にパンテオンと呼ばれるモニュメントがある。周知のよ うに、そもそもはキリスト教の「聖人」の聖遺物を収めるための教会として建立されたこの巨大建造物は、革 命期に世俗化されて「偉人」たちの棺が安置される共和国の神殿に変貌した。偉人の棺がパンテオンに入れら れるさいには、故人の業績をたたえる公式のセレモニーが行われる。2015 年に、オランド大統領の決定にし たがい、四人のレジスタンス参加者たちのパンテオン葬が行われたことは、記憶に新しい。
 ところで、興味深いと思われるのは、パンテオンのクリプト — 世俗の共和国のモニュメントである以上「霊 廟」という言葉を使うのは控えるべきだろう — には、著名な学者や法律家、政治家に混じって、幾人もの作 家たちが眠っていることである。本ワークショップでは、第三共和政以降の、作家たちのパンテオン入りをと りあげて、このモニュメントの歴史を辿ってみたい。田中はこんにちにまで続くパンテオンの地位を確立した ユゴーのパンテオン葬(1885 年)について、福田はドレフュス事件で世論が二分されるなか行われたゾラの パンテオン葬(1908 年)について、竹内はシラク大統領が主催したマルローとデュマのパンテオン葬(1996 年と 2002 年)について、報告を行う。どうしてその時代にその作家が選ばれたのか、セレモニーの様子はど のようなものであったか、作家のパンテオン入りは如何なる意義をもっていたのか。このような問いを掲げつ つ、ほぼ一世紀半のパンテオンの歴史を作家たちとともに振り返ってみれば、フランスという国が文学(者) ととり結ぶ関係の変遷が見えてくるのではないだろうか。

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2018年度春季大会・ワークショップ1


〈聖なるもの〉の〈ポリティック〉― シモーヌ・ヴェイユから出発して

鈴木順子(コーディネーター、東京大学非常勤講師)
有田英也(成城大学)
岩野卓司(明治大学)
上田和彦(関西学院大学)

 20 世紀前半を駆け抜けた、知と信、そして行動の人シモーヌ・ヴェイユ(1909‐43)。2019 年の生誕 110 周年に先立ち、昨年末われわれ は『シモーヌ・ヴェイユ 〈聖なるもの〉と〈ポリティック〉』(水声社、2017)を刊行し、ヴェイユの宗教的側面と政治的側面がいかなる 関係を取り結んでいたかを解き明かすことで、彼女の思想の 21 世紀的意義をヴェイユ研究の中心と外部の両面から問う試みをした。今回 のワークショップでは、上記共著者であるパネリスト四人がその試みをさらに進めようとするものである。
 鈴木は、ヴェイユにおける「聖なるもの」と「苦しみ」「歓び」との関係に着目し、そしてその関係が彼女の(一見犠牲的な)政治的行 動を、どのように支えたかを考察する。有田は、不幸と悪をめぐる『重力と恩寵』の考察を手掛かりに、 ヴェイユが集団的な肉体労働に 見出した霊性について考える。岩野は、バタイユとヴェイユにおける聖なるものと政治の関係を、過剰と死のテーマに沿って考察する。上 田は、ブランショによるヴェイユ読解を手がかりとして、不幸と注意をめぐるヴェイユの思索が、いかなるポリティックにつながるのかを 取り上げてゆく。
 このワークショップは、ヴェイユを中心テーマとしつつも、それに留まることなく、同時代や後の時代の文学・思想・歴史とも関連づけ ながら幅広く考えていくことを目的としている。従って多くの時間をパネリスト同士の議論に、また何よりも会場の皆さんとの質疑応答に 割きたい。ヴェイユの提起する問題を様々な立場から共有する貴重な機会となることを期待している。

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2018年度春季大会・ワークショップ2


女性作家と文学場のジェンダー
小倉孝誠(コーディネーター、慶應義塾大学)
川島慶子(名古屋工業大学)
村田京子(大阪府立大学)
東辰之介(駒澤大学)

 18 世紀から 19 世紀にかけては、科学的啓蒙や文学の領域で多くの女性が活躍し、同時代的には多くの読者を得ていた。しかし例外を除 いて、その後それら女性作家の多くは科学史や文学史から排除されてきた。近代は知と文学の言説を戦略的に「男性化」してきたと言える かもしれない。知の生産や創作が展開する「文学場」は、ジェンダー的な力学と無縁ではないのだ。本ワークショップでは、18 世紀の女 性科学啓蒙家と 19 世紀の女性作家を対象にして、同時代の男性作家と比較しながら、広義の「文学場」とジェンダーの関係を問い直す。
 川島は「女が書くこと、公表すること、名前を出すこと」に着目する。女性作家を扱う場合、この三要素は分けて考えなければならない。 ここでは 18 世紀の科学啓蒙家エミリー・デュ・シャトレを取り上げ、彼女が科学の本を書き、出版し、そこに自らの名を冠するに至った 経緯を、ジェンダーの視点から分析する。
 村田は「捨てられた女」のテーマを取り上げる。このテーマはオウィディウスのサッフォー像に遡り、バルザックが同名の小説を出版す るほどの文学的クリシェとなっている。男性作家が創造した「捨てられた女」のテーマを女性作家がどのように扱ったのか、スタール夫人 やサンドの作品をバルザックの小説とも比較しながら検証する。
 東はソフィー・ゲーを取り上げる。『アナトール』(1815)で知られる彼女の小説の魅力は細やかな観察にあるが、それだけでは長いキャ リアを築くことはできなかった。女性作家が特別視されていた文学場において、ゲーはどんな戦略を取ったのか。ジャンル選択や男女の描 き方に注目し、バルザックら男性作家と対比して検討する。

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2018年度春季大会・ワークショップ3


初期近代におけるテクストのデジタルアーカイブ構築にむけて
 ─ 国際人文学共同研究の可能性を求めて

逸見龍生(コーディネーター、新潟大学)
Maria Susana Seguin(モンペリエ・ポール・ヴァレリー大学)

本ワークショップでは、Maria Susana Seguin(17 世紀・18 世紀フランス文学・思想史・科学史)をメインスピーカーとして迎える。同教 授が現在進めている国際共同研究に関する基調報告を受け、デジタル・ヒューマニティーズ(デジタル人文学、DH)のフランス文学史・ フランス思想史研究における現況とその意義、課題を本学会と質疑応答を交えて共有していく。
デジタル情報の発展が人文学研究の実践の場にインパクトを与えるようになってすでに久しい。かつては多大な労力をかけねば閲読でき なかった中世から初期近世、近代にいたる稀覯本も、Gallica や Google Books などを始めとするデジタルデータの普及によってアクセスの 様態は大きく変容した。また横断的な全文検索システムの進展は、人文学における読解アプローチを以前よりはるかに多様化させつつもあ る。さらに、Web を介した研究情報の国際共有を目指す共通のプラットフォーム構築向けた国際研究の動きも拡大してきた。
Seguin 氏が牽引しているデジタルアーカイブ・プロジェクト、Réseau Européen d’étude de la République des Sciences は、そうしたトランス ナショナルな学術活動のひとつとして、ヨーロッパのみならず世界の研究機関と連携してアーカイブを構築しようとする人文学研究情報の 最新研究である。個人の作家・作品研究とは異なる多様で大規模な電子コーパスの構築とその利用を対象としており、フランス文学の分野 で従来より刊行・公開されてきた作家を中心とするデータベースとはやや異なるアプローチを採る。従来とは異なるどのような方法を取っ ているのか。それが初期近世のテクスト読解にいかなる可能性をもたらすのか。デジタルアーカイブ研究の意義と課題、あるいは日仏国際 共同研究のさらなる研究連携の方法などを含め、ワークショップとして会場からのコメントの時間を十分にとりながら、多面的に議論を深 めていきたい。

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2018年度春季大会・ワークショップ4


アンドレ・マルローと視覚芸術


永井敦子(コーディネーター、上智大学)
昼間賢(立教大学)
Françoise NICOL(Université de Nantes)
吉村和明(上智大学)

 小説家マルローの存在感が薄れて久しい。他方近年、マルローはむしろ複製論や博物館学等の分野で話題に上っている。私たちは、これ らふたつのマルローの相互貫入性をたどることでこそ、新たなアプローチを獲得できると考える。

 まず、昼間の報告「マルローと写真 ―『世界彫刻の想像美術館』における写真的世界観」。2004年に全集に加えられて以来、美術論は、 特にディディ=ユベルマンの強烈な批判に曝されながらも、新たな関心を集めている。そこで、写真という制約でも可能性でもある媒体に よって一連の「想像の美術館」を制作した作家マルローに注目しつつ、美術全集というよりは写真集として、なかでも『世界彫刻の想像美 術館』について考察を深めることで、従来の批判を乗り越える展望がありうるのではないかと問う。

 ニコルは「マルローとマッソン、1922年から1976年の連続線」と題し、美術論にはほとんど登場しないマッソンが、マルローと親密な友 人関係にあったことを実証的に示す。さらにマルローがマッソンの芸術論を評価する理由等を明らかにする。

 吉村は「マルローと映画 ― ありそうもない遭遇」と題し、スペイン内戦下での映画『希望 テルエルの山々』の制作、映画をめぐる理 論的考察「映画心理学の素描」の執筆、文化相としての映画の擁護と「ラングロワ事件」という逆説的な結末という三つの側面で、マルロ ーが映画に関わったことを示す。マルローの映画へのこうした関与は、それぞれの側面がからみあって映画という表現媒体にかんする多元 的な問いかけを形成している。まずはこうした問題点を整理しておく。(発表は昼間、吉村は日本語、ニコルはフランス語で行う。)

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2017年度秋季大会・ワークショップ7


哲学的地下文書研究、成果と今後の展望
——アルティガス=ムナン氏とともに考える——

寺田元一(コーディネーター)
アルティガス=ムナン
三井吉俊
飯野和夫

 日本の地下文書研究は、赤木昭三氏のご研究、野沢協氏を中心とする研究グループの翻訳などの成果を上げ ました。現地に赴いて原書を読み解いたり、続々と出版される批評版を読み解き翻訳したりする、20 世紀ま での研究がそこに結実しております。他方で、21 世紀においては、種々の古典や写本の電子化が飛躍的に進 み、デジタル・ヒューマニティーズといった方向で、研究が新たな進展を見せております。
 今回のワークショップでは、これまでの哲学的地下文書研究の成果や 
21 世紀的状況を踏まえた上で、地下 文書を含む「啓蒙」期の思想史研究の新たな可能性の一端を拓く試みにチャレンジしたい、と考えております。 最初に、地下文書研究の世界的な権威でもあるアルティガス=ムナン氏に《Bilandesrecherchesnouvelles sur les manuscrits philosophiques clandestins》(仮題)といった題で、これまでの地下文書研究を世界 的な視野から総括していただきます(30-40 分)。それを受けて、日本側から『啓蒙の地下文書』二巻の翻訳を 中心的に担い、精力的に地下文書研究を進められてきた三井吉俊氏、飯野和夫氏に、これまでの地下文書研究 の成果を踏まえた新たな研究の方向性の一端を各 15 分程度で報告していただき、最後にフロアと自由な意見 交換をしたいと考えております。

 三井氏については、内心の自由、思想の自由へと連続する、18 世紀における宗教的寛容、政治的寛容の問題 との関連で、哲学的地下文書(党派的秘密出版も含めざるを得ませんが)の意義・重要性を論じていただく予 定です。飯野氏には、自然主義的な無神論、唯物論、感覚論的精神発達論を展開した『世界形成論』(『啓蒙の 地下文書 II』所収)との絡みで、コンディヤックの感覚論哲学が生まれた時代の感覚論の土壌を、地下文書も 含めて考察していただくつもりです。

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2017年度秋季大会・ワークショップ6



19 世紀文学とジャーナリズム

佐々木稔 
(コーディネーター、愛知学院大学非常勤講師)
鎌田隆行 (信州大学) 
中島淑恵 (富山大学) 

 19 世紀フランスは、文学がジャーナリズムの影響を著しく受けた時代である。実際、一部の文学者を例外 として、1840 年代以降において文学者であることは、ジャーナリズムにおける日々の活動を前提とするもの であった。このことは、何よりもまず、文学が利益追求を第一義とするブルジョワ的価値観に順応しなければ ならなかったことを意味するが、同時に、ウージェーヌ・シュー、バルザック、モーパッサン、ゾラの例が典 型的に示しているように、文学者が新聞や雑誌を通して、従来よりも広い読者層を獲得する可能性を有してい たことをも示している。こうした歴史的条件を考慮するならば、ジャーナリズムと文学との関係を具体的に検 討することは、19 世紀文学の理解を進めるうえで重要な作業であると言える。こうした問題意識を踏まえ、 本ワークショップは以下のように 3 人の作家に焦点を当てた発表を行う。これによってジャンル(コラム、小 説、詩など)、時期、研究手法の異なる、幅の広い問題提起ができると考えている。
 鎌田は、バルザックにおける「パノラマ文学」の問題の考察を試みる。執筆陣の構成、編集者のイニチアチ ブの重要性、アクチュアリティー寄りの主題の重視という点でジャーナリスティックな性質の強い「パノラマ 文学」の展開にバルザックが深く関与し、それは『人間喜劇』の計画にも大きな影響を及ぼした。この作家に おける 1) 職業別社会風俗等「パノラマ文学」それ自体、2) 再利用による小説への部分的導入、3)「パノラマ文 学」と小説の融合を図った作品形態を検討する。
 佐々木は、第 2 共和政期におけるボードレールのジャーナリズム実践について検討する。この時期のボード レールは、『公共福祉』、『演劇週報』のように、自らが新聞・雑誌の作り手として積極的に関わろうとするな ど、他の時期には見られない固有の特徴を示している。本発表では、特に文芸雑誌『演劇週報』に焦点を当て、 これに関わっていた人物、掲載記事の傾向などについて具体的に検討し、当時のボードレールの問題意識を浮 き彫りにすることを目指す。
 中島は、ニューオリンズ時代のラフカディオ・ハーンが新聞に掲載したコラムのうち、ヘルン文庫(小泉八雲 旧蔵書)に収蔵されているフランス語本が出典となっていると思われるものを紹介する。これらのコラムは無 署名であり、ハーンの筆になるものと断定する根拠は従来、句読点の用い方や文体などに依拠していることが 多いが、それを蔵書あるいは蔵書の書き込みからある程度確定できるのではないかと考えられるからである。

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2017年度秋季大会・ワークショップ5


越境作家の外国語執筆とアイデンティティ

田中柊子(コーディネーター)
秋草俊一郎
塩谷祐人
鈴木哲平

 「グローバル」という語を聞かない日はないような現在、文学においても外国語でも作品を執筆する多言語 作家の存在に注目が集まっている。外国語執筆の契機は亡命、移民、難民、旧植民地出身、個人的選択など多 様だが、彼らはみな複数の言語と文化の間を行き来する越境作家である。このような作家たちはどのようにし て作家としてのアイデンティティや創作のスタイルを定めていくのだろうか。
  本ワークショップではまず田中が、チェコ出身でフランスに移住した作家ミラン・クンデラの世界的に読まれることを意識した自己翻訳と 外国語執筆を検討する。新しい読者を意識し、母国の文化や言語的感覚をいかに変換し、また残すかという点 を追究するクンデラの試みをもとに、文学的帰属、国民文学の枠組みに対する挑戦、外国語執筆で得られるも のあるいは失われるもの、自らの越境状態に対する特別な意識など、越境作家のアイデンティティ形成を見て いく上で重要と思われるいくつかの切り口を提示する。
 鈴木は、アイルランド生まれのフランス語作家サミュエル・ベケットをとりあげ、主に美学的理由による「越境」「バイリンガリズム」のケースを考える。ベケットは、アイルランド出版界の保守性(宗教宗派の違い にもかかわる)、イギリスでの無理解をこえて、フランスで/フランス語で書くことをとおして、作家として のスタイルやアイデンティティを獲得した。具体的にはその英語執筆とフランス語執筆の比較や、一方から他 方へと自らの作品を翻訳する「自己(自作)翻訳」を検証する。また可能な限り、その「大陸主義」の先達で あるジェイムズ・ジョイスをも参照する。
  秋草はロシア出身のバイリンガル作家ウラジーミル・ナボコフをとりあげる。ナボコフが亡命ロシア文学と いうコミュニティを代表するロシア語作家にベルリン―パリでなりながら、ナチスの台頭・第二次大戦を機に アメリカに脱出し、英語作家になったことは、同輩の亡命者たちからかならずしも快くうけとめられなかった という事実を出発点に、ナボコフと亡命ロシア人たちとの軋轢、最終的にナボコフが過去のロシア語作家とし ての自分を「自己翻訳」で破壊する様子を紹介する。  
 塩谷はロシアからフランスに移り住み、フランス語で現在も執筆を続けている作家のアンドレイ・マキーヌ をとりあげる。2016 年にアカデミー・フランセーズの会員に選出されたマキーヌに焦点を当てることで、「フ ランス文学」という枠組みやフランスの文学システムの中で、いかに越境した作家たちが「作家としてのアイ デンティティ」と向き合うことになるのかを検証し、彼らを取り込む(あるいは拒む)ことで作り直されてい く「フランス」文学の可能性を示唆する。  
 一つの国家、言語、文化の枠組みを越えて活動する越境作家は、祖国を離れず母語で書き続ける作家たちと は異なる位置づけを与えられる。フランスに関して言えば、「フランス文学」とは別にこうした作家の作品を 分類するための名称として、「フランス語圏文学」や「外国語文学」といった名称が使われる。これは文学を 国別・言語別に考えていくことの限界が見てとれる現象であると言えるが、その一方で作家は生身の人間であ り、限られた時間の中で特定の地域や文化に触れ、特定の言語を使って創作を行う。とりわけ、外国語で執筆 する越境作家は、自らの複雑な言語的・文化的背景に向き合い、誰に向けて何を表現するのかという問題に直 面する。国家の枠組みをすり抜けていく現代の越境作家の作品の内容や言語表現に、地理的・文化的・言語的 特色を読み取り、彼らのアイデンティティ形成の在り方を追究するという試みは、逆説的ではあるが、今日に おける「文学」と「国籍」、「文学」と「言語」の関係についてあらためて考える契機になるだろう。

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2017年度秋季大会・ワークショップ4


フランス語教育の今日的意義と緊急課題
——「英語以外の外国語」教育——

武井由紀 (コーディネイター、名古屋外国語大学)  
山崎吉朗 (日本私学教育研究所)    
茂木良治 (南山大学)    
野澤督 (国際基督教大学)    
中野茂 (早稲田大学高等学院)
 
 今日の政治・経済・社会面での世界的レベルにおけるパワーシフト、日本の少子高齢化社会、越境する労働 力、AI の発展が、人文・社会科学分野とりわけ教育学、外国語教育学に与える影響は大きい。  日本の教育行政を担う文科省から公表された、2020 年度から導入が予定されている「大学入学共通テスト(仮称)」とそれに伴う英語外部試験活用、高大接続改革、さらに次期学習指導要領に着目すれば、「外国語」に まつわる議論の大前提になっているものは英語であり、かつてのフランス語、ドイツ語が重宝された時代は遥 か昔、需要の高いアジア諸国言語に対しても配慮が感じられるものではない。
 一方、このような現状に警鐘を鳴らし,文科省へ働きかけている各種学会・団体、東京都の高等学校で英語 以外の第二外国語を必修化する動きがある。加えて、今年度の文科省委託事業「外国語教育強化地域拠点事 業」においては「英語以外の外国語」枠が設けられ、採択事業の一つには本企画関係者らで進めているフラン ス語の学習指針策定を試みる研究事業もある。
  ワークショップでは教員養成も含め,これらの現状報告をしながら問題点を指摘した上で,日本社会に映し 出される外国語教育、フランス語教育の今日的意義を読み取り、将来の外国・外国語研究につなげるために、 まさに今求められていることは何かについて議論を深めつつ、危機感と方向性を共有する場としたい。

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2017年度秋季大会・ワークショップ3


フランス文学(史)とはなにか
—— シルヴァン・ムナンパリ第 4 大学名誉教授とともに考える—— 


井上櫻子 (コーディネーター、慶應義塾大学)  
Sylvain Menant (パリ第 4 大学)  
小倉孝誠 (慶應義塾大学)  

 本ワークショップは、長年パリ第 4 大学で教鞭を執られ、Revue d’Histoire litte ́raire de France(略称 RHLF) の編集長や Association Internationale des E ́tudes Franc ̧aises の会長などを歴任されたシルヴァン・ムナン
氏の来日に際し、企画するものである。
 ワークショップでは、はじめにシルヴァン・ムナン氏に「フランス文学とは何か」という演題で発表してい ただく。ムナン氏の専門分野はヴォルテールを中心とする 18 世紀フランス文学・思想であるが、学会に参加 される会員の方々の専門分野が多岐にわたることを配慮し、より幅広くフランス文学全般にわたるお話をいた だく予定である。フランス文学研究、とりわけ文学史研究は、時系列上アンシャン・レジーム期と革命以降に 二分されることが少なくない。そこで、ムナン氏の問題提起を踏まえつつ、まず、井上が 18 世紀フランス文 学・思想研究を進めるものの立場から、ついで、小倉孝誠氏が 19 世紀フランス文学の専門家の立場から、「フランス文学、文学史」についてのそれぞれの見解を提示し、ムナン氏と討議を行いたい。このような作業を通 して、限られた時間ながら、フランス文学(史)を新たな視点から捉え直す可能性についてさぐってみたい。
 また、近年、日本では「人文学の危機」が取りざたされることが少なくない。はたして実際にそうなのか。 仮にそうであるとして、フランス文学研究に携わる者としてなにができるのか。大学改革の進められているフ ランスでの現状はどうなのか。こうした点についても、フロアの聴衆の方々と共に、日仏双方の視点から検討 できれば幸いである。

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2017年度秋季大会・ワークショップ8


ラスコーの曙光から
~バタイユ、シャール、ブランショ~ 

福島勲 (コーディネーター、北九州市立大学)
吉田裕 (早稲田大学)  
吉本素子 (早稲田大学)  
郷原佳以 (東京大学)
  
 およそ二万年前の人類が描いたとされるラスコー洞窟の壁画は、芸術の誕生を、人類の誕生を標すものとし て、1940 年の発見以来、多くの作家・詩人・思想家・芸術家たちにさまざまな着想を与えている。今回のワー クショップでは、ラスコー壁画ないしはそれを題材とする作品について思索・創作した作家・詩人たち、具体 的には、バタイユ、シャール、ブランショらを比較検討することで、ラスコー壁画が現代文学に残したインパ クトを測るとともに、彼らの差異と共通性を浮かび上がらせてみたい。
 最初に、福島は、ラスコー洞窟をめぐる概括的な導入を行う。その上で、バタイユからデュラスに至るテクス トを通じて、洞窟壁画が先史時代の人類の記憶の場、記憶装置として機能していることを論じる。
  次に、吉田はバタイユのイマージュ論を扱う。1940 年のラスコーの発見は、バタイユにとって芸術のはじ まりを考えるための絶好の契機となり、55 年のスキラ社からの『ラスコー』に結実する。洞窟には多数の動物 像とひとつだけの人間像があり、この対比について彼はたしかに独特な解釈を示していて、それがしばしばこ の書物の主題だとされるが、今回の発表ではそれよりも、バタイユがイマージュ形成の理由と様態そのものに 関心を持っていたという見地から、その過程がこの書物でどのように捉えられたかを検証していく。  
 三番目に、吉本はシャールを扱う。とりわけ、René Char, « Lascaux » dans la Paroi et la prairie(Paris, G.L.M., 1952. Textes reproduits dans René Char. Dans l’atelier du poète, Marie-Claude Char éd., Paris, Gallimard, coll. « Quarto » , 1996, pp. 671-673)を対象とし、このテクストの形、思想、魅力、シャールの 全作品の中の位置、バタイユ、ブランショとの関連について考察する。  
 最後に、郷原はブランショを扱う。ブランショは 1953 年、ラスコーの壁画を題材としたシャールの詩「名 づけようのない「獣」(1952)に触発され、「ラスコーの獣」というテクストを発表し、1958 年に書籍化した。 シャールへのオマージュと言うべきこのテクストにおいて、ブランショはしかし、直接シャールを語るのでも ラスコーの壁画を語るのでもなく、書かれた言葉に対するソクラテスの恐れを想起させ、その対蹠点にいる者 としてのヘラクレイトスにシャールを重ね見ている。他方、1955 年には、バタイユの『先史時代の絵画:ラス コーあるいは芸術の誕生』(1955)を承けて「芸術の誕生」という論考を発表している。このように、ブラン ショのラスコーへの言及はつねに他者のテクストを契機としているが、そこには言語と芸術に関するいわば独 自の歴史意識が見て取れる。以上の 2 篇のテクストからそのことが示されていく。  
 4つの発表のあと、登壇者による討論と会場との質疑応答を予定している。

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2017年度春季大会・ワークショップ2


いま、パスカル・キニャールを読むこと——コレクション刊行をきっかけに 


磯﨑憲一郎(作家、東京工業大学)
小川美登里(筑波大学)
博多かおる(東京外国語大学)
桑田光平(司会:東京大学) 

 2016 12 月から水声社よりパスカル・キニャール・コレクションの刊行がはじまった。このコレクションは、キニャールのライフワークともいえる「最後の王国」シリーズ(現在、フランス語で第九巻まで刊行)を中心に、最新刊『涙』や小説『約束のない絆』、さらには短編集、ダンス論(『ダンスの起源』)、イメージ論(『はじまりの夜』、原題 La Nuit sexuelle)などを含むもので、すでに多くの小説の翻訳が存在してはいるものの、「あらゆる形式」を駆使して作り上げてられている主著「最後の王国」シリーズが日本の読者のもとに届けられることで、作家キニャールの全貌が明らかになると言っても過言ではないだろう。

 若くしてルイ=ルネ・デ・フォレにその才能を見出され、ボヌフォワ、デュブーシェらによって創刊された雑誌『レフェメール』に難解ともいえる評論や小品を発表することで作家としてのキャリアをスタートさせたキニャールだったが、その後、出版社の原稿審査員をつとめながら、いかなるグループや流派にも属すことなく、独自の文学世界を構築していった。歴史の時間と歴史以前の時間——キニャールはそれを「往古」(jadis)と呼ぶ——がもつれ合い、言語と沈黙あるいは言語以前が溶け合うようなその作品世界は、ラテン語文化を中心に古今東西のさまざまな文化に関する豊穣な知識に裏打ちされたものであり、その博覧強記が、時に読者を遠ざけてしまうことすらある。本ワークショップの目的は、難解とも博覧強記とも言われがちなキニャールの文学世界に対していかなる接近が可能かを探ることにある。それは、キニャールが自らの死に場所として決めている「最後の王国」への入り口を探すことでもあるだろうし、読者がいかにして自らのさまよえる「影」を探しだすかということでもあるだろう。

 小川は「影」のテーマの多義性とその射程を探り、同時代の文学と距離を置く態度から生み出される、キニャール独自の文学観を明らかにする。博多はキニャールの小説作品と『最後の王国』等の関係に注目しつつ、音楽、色彩、影について考える予定である。また、作家でキニャール作品の愛読者である磯崎憲一郎氏には実作者としての立場からキニャールについて語っていただく予定である。


お知らせ

2017年度春季大会・ワークショップ3
     
                                                                                                                                 

Entretien avec Antoine Volodine


Antoine Volodine (écrivain)
François Bizet (Université de Tokyo)
Keiji Suzuki (Université de Tokyo)

    La présence de l’écrivain Antoine Volodine au Japon, en résidence à la Villa Kujoyama de Kyoto, nous a donné l’idée de l’inviter à s’exprimer, pour la deuxième fois dans notre campus, sur l’univers romanesque qui est le sien (trois titres traduits en japonais à ce jour), et auquel il a donné le nom de « post-exotisme ». L’objectif est
    1) de présenter une œuvre marquée par l’hétéronymie (Antoine Volodine est le nom d’un auteur qui se dit le porte-parole de plusieurs autres auteurs fictifs, mais bien présents dans le monde éditorial),
    2) d’interroger l’auteur sur son tropisme asiatique et sur son expérience actuelle du Japon,
    3) d’aborder plus profondément un thème central de son œuvre : la prison et l’imaginaire carcéral.
    Cet entretien pourra être accompagné d’une lecture d’un des livres de Lutz Bassmann (un des hétéronymes), Haïkus de prison, dont des extraits sont en cours de traduction en japonais.

2016年度秋季大会・ワークショップ1



2016年度秋季大会
ワークショップ1
Dire le bonheur : une gageure littéraire ? 

Yann MEVEL (Président, Université du Tohoku )

Guilhem ARMAND (Université de la Réunion)
Yuki ISHIDA (chercheur attaché à la JSPS)
Mirei SEKI (Université d’Aichi)


Cette table ronde constitue la première phase d’un projet de recherche mené en collaboration avec un spécialiste de la littératurefrançaise du XVIIIe siècle, Guilhem Armand, maître de conférences à l’Université de La Réunion. On pourrait, à l’heure actuelle, penserque le bonheur relève essentiellement d’une littérature populaire, à faible valeur artistique. Cette table ronde permettra de nuancer ce pointde vue. Ce n’est pas uniquement de représentations ou même d’aspirations qu’il sera question, mais des pouvoirs de l’écriture et de lalittérature. La communication de Guilhem Armand, intitulée Le bonheur selon Diderot : variations de l’idéal matérialiste, visera à cernerles variations et les nuances d’une conception du bonheur qui, dans ses contradictions et revirements, reflète bien les hésitations du siècledes Lumières. La communication de Yuki Ishida, doctorant et chercheur attaché à la JSPS, Le bonheur par la création littéraire : les liensentre le bonheur et l'imaginaire chez Rétif de la Bretonne, tentera d’éclaircir la tentative de Rétif de la Bretonne de faire de l’écriture lemoyen d’un bonheur individuel et idéal. La communication de Mirei Seki, maître de conférences à l’Université d’Aichi, portera surLa représentation du bonheur dans les romans des écrivains femmes au XIXe siècle, et s’intéressera notamment à des œuvres de Delphinede Girardin et de George Sand. Elle évoquera des écrivaines à la recherche d’un bonheur tout à la fois individuel et collectif. Enfin, lacommunication de Yann Mével, Avec et après Beckett : le bonheur malgré tout ?, rendra compte des traces ou signes de l’espoir, despossibles épiphanies dans l’œuvre de Beckett, avant de se pencher sur des œuvres d’écrivains qui se reconnaissent en Beckett. 

2016年度秋季大会ワークショップ3



2016年度春季大会
ワークショップ3
生誕111年 J.-P.サルトル再読─実存主義を遠く離れて 


翠川博之(コーディネーター、東北大学非常勤講師)

生方淳子(国士舘大学)
澤田直(立教大学)

 

かつて日本は世界のどの国よりも熱狂的にサルトルを受容しながら、その後、手のひらを返すようにサルトルを読むことを止めてしまった。残念なことに、サルトルといえば『嘔吐』と『存在と無』の実存主義者、『弁証法的理性批判』を書いたマルクス主義的知識人といった紋切り型がいまだに幅を利かせている。他方、フランスを中心とする欧米では、膨大な遺稿類の発掘や検討を通して、彼の広汎な仕事に対する学際的研究が現在も活発に進められている。生誕 111 年。いま、サルトルのテクストは読者になにを語りかけるのか。本ワークショップは、最先端の研究を意識しつつ、旧来のサルトル像を刷新するために企画したものである。邦訳のない作品や新資料を参照しながら、研究領域を異にする3名のパネリストがそれぞれの観点から新たなサルトル像を描き出す。

澤田は、芸術家と作品を歴史の中で結節しようとするサルトルのアプローチに、作者と作品を截然と分かつ作品至上主義的な読解を越える新たな芸術論の可能性を見いだすべく、知られざるティントレット論を含むイタリア関連テクストを読解する。翠川は演劇テクストに注目。未訳の戯曲第一作「バリオナ」と直後に書かれた『蠅』を一対の作品と捉えることで、『存在と無』の翻案とみなされてきた『蠅』の意味を根本から問い直し、その制作過程からサルトルの心性、思想の裏面をあぶり出す。生方は1964− 5年に執筆された遺稿「コーネル大学講演予定原稿」を取り上げ、いったんは倫理学を放棄したサルトルが倫理の規範性とモラル・ジレンマについてどう考察を進めていたのか、コールバーグの道徳性発達理論と比較しながら検証する。 

2016秋季大会ワークショップ4





2016年度春季大会
ワークショップ4
ソシュール『一般言語学講義』の 世紀 ― 構造主義、時枝論争、新手稿 

阿部宏(コーディネーター、東北大学)

松澤和宏(名古屋大学)
金澤忠信(香川大学)
松中完二(久留米工業大学)


本年は、『一般言語学講義(以下、『講義』)』(1916)刊行 100 周年にあたる。この著作は 20 世紀言語学のバイブルとしての位置づけにとどまらず、人文社会諸科学の構造主義の思潮を生み出し、他方では『講義』のテキストそのものを再検討するソシュール文献学を誕生させ、今日に至っている。また日本では、言語過程説の立場からのソシュール批判、いわゆる時枝論争が展開されることとなった。

本ワークショップは、『講義』が巻き起こしたこれら国内外の1世紀の動向を批判的に踏まえた上で、以下の諸点を中心に議論し、新たなソシュール研究の方向性を模索するものである。・「ソシュールの手稿」には一般言語学に関するものだけでなく、歴史比較言語学、伝説・神話研究、アナグラム研究、書簡、日記・忘備録、政治的言説なども含まれている。これらは少しずつではあるが公表されており、「構造主義の先駆者」にとどまらないソシュール解釈の可能性を示唆するものである。

・ソシュール学説における最大の謎と矛盾点は、「言語の科学に langue を設定」し、「言語が実存体」であり、「言語記号には差異しかない」という主張である。これらの主張こそが、時枝誠記が己の学説で全面的に異を唱えた点であった。しかし、この時枝論争を今日的観点から検証してみれば、新たな側面が見えてくるのではなかろうか。・ソシュールの弟子たちによる編著書『講義』の刊行によって流布し定着した観のある通説(ドクサ)の一つが、記号内の二つの面(シニフィエとシニフィアン)の関係は、同じ体系内の記号間相互の差異的関係の二次的な結果に過ぎない、という解釈である。丸山の説いた「ソシュールの思想」の核心でもあるこの通説を、手稿や聴講ノートに基づいて再検討する。 


2016秋季大会ワークショップ5

2016年度秋季大会
ワークショップ5
レチフ・ド・ラ・ブルトンヌを読む ― 記憶・系譜・道徳



藤田尚志(コーディネーター、九州産業大学)
森本淳生(京都大学人文科学研究所)
辻川慶子(白百合女子大学)

これまで18世紀の専門家にさえ扱われることの少なかった文学者レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ。この分類不能な未聞の作家に対して登壇者三人は、門外漢ながらそれぞれの関心から接近し、新たな可能性を引き出すことを試みる。

森本は、『ムッシュー・ニコラ』中の「サラの物語」に、文学が記憶・回想と特権的連関をもつに至る、その端緒の一つを見出す。自己の人生を絶えず反芻し、その様々な変奏を作品化するレチフにおいて、統一的な主体は記憶の多様な層へと分散している。人生の絶えざる書き換えとその再創造は、現代のオートフィクションの論点にほかならない。

辻川は、レチフ、ネルヴァル、シューに共通する「捏造された家系図」というモチーフを出発点とし、1848年前後のレチフ・リバイバルの意義を考える。三者いずれにおいても、現在の起源を辿る試みの中で、正統性を欠いた遺産継承の物語が語られる。過去の書き換え、系譜の詐称という遺産創生の物語が新たな集合性の夢を生み出すさまを検討する。

藤田は、近代的結婚の可能性と限界を同時に描写したルソーとは真逆の位置を占めるのがレチフであるという見取り図のもと、具体的な作品の幾つかをとりあげる。レチフによる道徳性の称揚と家族壊乱的論理の交差を、単純に裏/表と捉えるのではなく、道徳性そのものが持つ不道徳性(不実な誠実さ/誠実な不実さ)という仕方で読み解くことを試みる。

こうして、虚構的自伝、捏造された系譜、家族の(不)道徳性という観点から、個別の作品を具体的に読み解くことで、彼の多様な問題意識とその根本的統一性が露わになる。レチフにおいて裏側から目撃されるもの、それは近代的な主体の創設ではないだろうか。 

2016年度秋季大会・ワークショップ6


2016年度春季大会
ワークショップ6

文学集団の詩学 

熊谷謙介(コーディネーター、神奈川大学)
倉方健作(九州大学)
福田裕大(近畿大学)
合田陽祐(山形大学)

19 世紀後半の詩は、一方でボードレール、マラルメ、ランボーと固有名詞で語られがちであり、他方で政治や宗教などの言説に引き寄せて論じられる傾向にあった。しかし、作品は決して一人の天才によって作られるものではない。また他領域の言説より先に来るのは、同時代の文学的言説の中でどこに身を置くか、である。これは「文学の自律性」(ブルデュー)を再考する上でも重要であろう。私たちはこれを「文学集団」の観点から考えたい。大衆社会の成立期にあって、詩人たちは集団を形成し、言葉を互いに流通させながら、文学の商品化の時代を生きていた。本ワークショップでは、19 世紀後半の詩人たちを中心に、作品創造の場となる共同体について論じていく。

倉方は「高踏派」と括られてきたグループを再検討することから、文学史上の区分の自明性、研究対象としての「個人」と「集団」のあり方を問う。福田は 1870 年代の文芸サロン・文学的小集団のなかでみられた様々な創造実践に着目し、同時代の作品生産・受容のありかたを集団性の観点から再考する。 熊谷は 1890 年代において師弟の問題が前景化したことを確認し、マラルメが理想とした「師弟のまじわり」に着目することで、世紀末の文芸共和国の在り方について考察する。合田はジャリの『フォストロール博士の言行録』をアンソロジーとして再読することを通し、1890 年代の『メルキュール・ド・フランス』誌の共同体のあり方について問う。間テクスト性、ホモソーシャル、雑誌メディア、アンケート、マニフェスト、朗読、集団創作といったキーワードで考えることで、19 世紀後半のみならず、ボエームや 20 世紀の前衛芸術集団を考えるための視点を提供し、多くの聴衆に活発な議論を喚起できればと考えている。 

                                          

2016年度春季大会ワークショップ

2016年度春季大会のワークショップ音声をアップしました。
ご意見等ございましたら、
事務局までお寄せください。


 

 

2016年度春季大会

ワークショップ1

20世紀フランス文学をめぐるアヴァンギャルド的思考

2016529日・学習院大学)

 

塚原史(コーディネーター、早稲田大学)

熊木淳(パネリスト、早稲田大学)

進藤久乃(パネリスト、松山大学)

前山悠(パネリスト、学習院大学)

門間広明(パネリスト、早稲田大学)

 

 チューリッヒ・ダダ100周年・ブルトン没後50年の節目にあたる本年、本ワークショップは、これまであまり論じられてこなかった第二次世界大戦後フランスの前衛(=アヴァンギャルド)に光を当て、前衛の定義を問い直すことを目的とする。

 20世紀初頭、未来派からダダを経てシュルレアリスムに至る前衛の系譜については多くの研究があり、アントワーヌ・コンパニョンを始め多くの研究者がその定義を試みている。しかし、第二次大戦後の前衛はこれまであまり注目されてこなかった。イザベル・クルジウコウスキーの前衛論に見られるように、第二次大戦後フランスの前衛は、直近のシュルレアリスムよりもそれに先立つ前衛の問題意識を継承しているとみなされている。しかしよく見ると、シュルレアリスムもまた第二次大戦後に前衛が再編成されていく流れに深く関わっているのではないだろうか。また、第二次大戦後の前衛たちをより詳しく検証することで、戦前とは異なる前衛のあり方が浮き彫りになるのではないだろうか。

 本ワークショップでは、コーディネーターが20世紀前半フランス文学のアヴァンギャルドの展開をダダ・シュルレアリスムを中心にプレイバックした上で、各パネリストが、第二次大戦後のフランスにおいて前衛と対峙したいくつかの運動体や詩人を取り上げる予定である。具体的には、進藤が第二次大戦後前衛とシュルレアリスムとの関係、前山がコレージュ・ド・パタフィジックとウリポの「反前衛的」性格、門間がシチュアシオニストたちの運動と先行する前衛運動の関係、熊木がレトリスム以降の前衛詩における新たな前衛の概念について論じ、互いに共通する論点をめぐり議論を行う。以上のように、前衛の定義に再検討を促すケースを提示しながら、それが前提としているもの、すなわち20世紀フランスのアヴァンギャルド的思考の要点を明らかにしたい。

 

 

2016年度春季大会

ワークショップ2

大衆小説研究の現在

2016529日・学習院大学)

 

宮川朗子(コーディネーター・パネリスト、広島大学)

安川孝(パネリスト、明治学院大学)

市川裕史(パネリスト、津田塾大学)

 

 マルク・アンジュノは、Les Dehors de la littérature. Du romanpopulaire à la science-fiction (2013) において、「文学研究は、その《自明な》対象と考えられうるものの90%以上を遠ざけること  ――この先決的な別扱いについて何の弁明もせず、問いただすこともしないで―― から始める唯一の学術的領域、《人文学》と呼ばれるもののなかで唯一の領域である。」と文学研究における、いわゆる「純文学」偏重の傾向を指摘している

 とはいえ近年、大衆小説は、徐々に博士論文や研究論文の対象となり始めている。そして大衆小説全般を対象とする文学研究誌の発行、研究サイトや大衆小説関連事項の検索サイトの設置など、大衆小説研究も、活況の兆しをみせている。

 そこで本ワークショップでは、まず安川が、大衆小説再評価の動向が活発になる1990年代以降の研究の潮流を紹介した後、それぞれの発表者が、関心を寄せる小説、小説家を取り上げて論じる。

安川は、テクスト解釈における読者の主体的な参加の可能性を探り、大衆小説は一元的で受動的な読みを想定しているという支配的な評価に再考を迫る。

続いて宮川が、ゾラの『マルセイユの秘密』とこの小説を連載した『プロヴァンス通信』との関係、連載版と書籍版との間に見られる違い、さまざまな書籍版の出版をめぐる問題を提起しながら、この作家が時折大衆的と目される原因を探る。

最後に市川が、ヴィルジニー・デパントとパトリック・ウドリーヌを例にして小説と大衆文化(とりわけパンクロック・カルチャー)との関係を考察する。

 三者三様の発表ではあるが、それはとりもなおさず「大衆」という言葉がもつ問題性ゆえんである。会場との意見交換を通し、「大衆性」をめぐる問題や大衆文学の可能性について議論を深めることができたら幸いである。


 

 

2016年度春季大会

ワークショップ3

Théâtre Langue Étrangère

2016529日・学習院大学)

 

ティエリ・マレ(コーディネーター、学習院大学)

フランソワ・ビゼ(パネリスト、東京大学)

井上由里子(パネリスト、立命館大学)

宮脇永吏(パネリスト、学習院大学)

 

Si le théâtre consiste en parolesproférées sur la scène, il ne s’ensuit pas nécessairement qu’on y parle notrelangue. Dès l’origine en Grèce, les barbarismes, voix des Barbares et motsbarbares, ont résonné dans l’espace dramatique, chez les Perses d’Eschyle oules Triballes d’Aristophane. On sait qu’une étymologie possible du mot « farce» se rapporte au mélange des langues, ressurgissant au finale des comédies-balletsde Molière aussi bien que dans les pratiques les plus récentes du théâtrecontemporain.

 C’est cette étrangeté des idiomes de théâtreque cet atelier se propose d’aborder : glossolalies, accents, mots inventés,propos inintelligibles, expressions décalées, à travers quelques œuvres ouquelques figures. Claudel ou Guyotat, Koltès, Beckett, Novarina, Mnouchkine ouPeter Brook, Artaud peut-être…


 

 

2016年度春季大会

ワークショップ4

恐怖・嫌悪・欲望とジェンダー

2016529日・学習院大学)

 

高岡尚子(コーディネーター、奈良女子大学)

玉田敦子(パネリスト、中部大学)

中川千帆(パネリスト、奈良女子大学)

倉田容子(パネリスト、駒澤大学)

 

ひとはなぜお互いを怖れ、嫌悪あるいは憎悪し、ときにはそれを理由に争い、傷つけ合うことになるのか。世界が狭くなり複雑になった今日、この問いは、私たちの日常の其処此処にあって、のど元を締め付けるような息苦しさを持って迫ってくる。本ワークショップでは、この問いに、社会の近代化とジェンダーの観点から取り組んでみたい。

そもそも、近代における国民国家は、ひとと社会のジェンダー化を基礎として成り立っており、その結果、私たちの生きる世界も隅々に至るまでその影響を被っていることを、これまでの研究が明らかにしている。また、ジェンダーの視点を用い「恐怖・嫌悪・欲望」について考えるということは、単に、性別による役割の規範やその成り立ちを明らかにするだけでなく、こうした「心の動き」とみなされるものが、実は、個人的なものではなく社会的なものであり、イデオロギーとして、さらには文化的コードとして「構造化」されているのだという視座を提供してくれるだろう。

本ワークショップの特徴は、こうした目論見を共有しながら、コーディネーターとパネリストが、それぞれ異なった専門分野で得た知見を報告する点にある。まず、コーディネーターの高岡が、近代社会(主にフランスと日本)におけるジェンダー化の道筋を示す。続いて、3名のパネリストがそれぞれ「モンテスキュー・女性・国家フランス啓蒙とミソジニー」(玉田/フランス文学)、「フランスから来た美魔女ポーの「眼鏡」と帝国」(中川/アメリカ文学)、「〈例外状態〉における女の身体三枝和子の諸テクストにおける生殖と性暴力」(倉田/日本文学)というタイトルのもとに、性をめぐる「恐怖・嫌悪・欲望」の原動力と破壊力、さらには破壊の影響を提示する。

 

 

2016年度春季大会

ワークショップ5

マルグリット・デュラス没後20周年

―21世紀におけるデュラス

2016529日・学習院大学)

 

関未玲(コーディネーター、愛知大学)

小川美登里(パネリスト、筑波大学)

桑田光平(パネリスト、東京大学)

澤田直(パネリスト、立教大学)

 

2016年はマルグリット・デュラス没後20周年を迎える節目の年であり、ヌーヴォー・ロマンの一騎手として、あるいは戦争文学、ポストコロニアリスム文学批評、ジェンダー文学研究などの論点から分析される作品として、つねに「現代文学」を牽引してきたデュラスを、包括的な視点から読み直す作業が求められている。プレイヤード全集の刊行により文学、映画脚本、演劇作品を網羅的に捉えることが容易となった21世紀において、文学の伝統という系譜のなかでデュラス作品をどのように位置づけるのか、再定義することが可能ではないか。

パネリストの小川美登里は、ヌーヴォー・ロマン以前の文学史とデュラス作品を接続すべく、まずは、デュラスの作品創造に深い影響を与えたと考えられるマルセル・プルーストとヘンリー・ジェイムズに触れる。さらに、海を背景とする物語を流動的で反復的な海のごときエクリチュールで覆い尽くすデュラス独自のスタイルが、海や植民地、琉璃や漂流をテーマとする(海洋)文学の系譜に結びつけることが可能であるかどうかについて検討する。

桑田光平は、バルトに対して終始距離を保ち続け、「退屈である」とまで公言していたデュラスのバルト評価を検討し、デュラスとともにバルトを読むこと、そして、バルトとともにデュラスを読むことを通して、「書くこと」と「生きること」の関係について考察を試みる。

澤田直は、デュラスのテクストおよび映像作品に見られるカタストロフ、廃墟、破壊といったモチーフに着目し、それらのテーマを他の作家、思想家、芸術家との関わりのなかで読み解くことを試みる。

本ワークショップは、これまでいち早くデュラス作品の翻訳を手掛けてきた日本のフランス文学研究から新たな読解を発信し、デュラス文学の今日的意義を改めて議論する場となるべく、文学史全体のなかでデュラス文学の広義の理解を目指すものである。

2015年度春季大会ワークショップ

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2015年度秋季大会

ワークショップ2

関係性の中に置かれたフランス

─ モダニズムの時代における黒人文化表象をめぐって

2015111日・京都大学)

 

吉澤英樹(コーディネータ・パネリスト、成城大学)

元木淳子(司会、法政大学)
三宅美千代(パネリスト、慶応義塾大学)

柳沢史明(パネリスト、東京大学)

 

 本ワークショップは『ブラック・モダニズム―間大陸的黒人文化表象におけるモダニティの生成と歴史化をめぐって』(未知谷)の刊行と連動して企画されたものである。20世紀初頭に改めて「発見」された「黒人」という主題と、両次大戦間の知の枠組みの変動との関わりを解明するプロジェクトの一環として今回は柳沢史明(美学・民族芸術学)と三宅美千代(英語圏文化・文学)と協力し、黒人文化表象が持ちえたモダニティを関係性において考えることを目的としている。当日は吉澤が、シュルレアリスムの使用権をブルトンと争ったイヴァン・ゴルの妻クレール・ゴルの小説『ニグロのジュピター、ヨーロッパを席捲する』(1928)を中心に、ドイツ表現主義と当時のフランスの芸術運動との関係を黒人表象の傾向から分析する。三宅は、アラゴンやベケットと親交をもつ英国人ナンシー・キュナードが20年代後半にフランスで展開した印刷所運営と、アンソロジー『ニグロ』(1934)の編集活動を取り上げ、間大陸的なモダニズムに内在する黒人問題をめぐる差異や隙意に注目する。柳沢は、両次大戦間のベルギーとフランスの植民地行政間の相互影響関係や軋轢が黒人芸術の受容や再生産に与えた影響について、ベルギーの幻想文学作家フランツ・エランが1922年に発表した黒人彫刻を擬人化した小説の中にその反映を読み込む。アフリカ文学専門家で司会の元木は、議論を整理しコメントを介して会場へと議論を開く。こうして本ワークショップは、一つの主題を広域的なコーパスにおくこと、さらに他のディシプリンとの交差の内にフランス文学の特色を側面的に浮かび上がらせることも目的としている。




2015年度秋季大会

ワークショップ5

文学と悪とモラル

2015111日・京都大学)

 

松澤和宏(コーディネータ・パネリスト、名古屋大学)

越森彦(パネリスト、白百合女子大学)

海老根龍介(パネリスト、白百合女子大学)

北原ルミ(パネリスト、金城学院大学)

 

文学(研究)の根拠が厳しく問われている今日、久しく軽視されてきた観のある文学と悪とモラルの関係に光をあててみたい。越は、リスボン大震災(1755111日)を契機にしてヴォルテールとルソーの間で展開された悪の存在と最善説の正当性をめぐる論争の内容を確認したのちに、言説分析の立場から『リスボンの災禍についての詩』・「ヴォルテール氏への手紙」・『カンディード』という論争的テクストにおける説得手段としてのレトリックを分析する。ボードレールは『悪の華』について「悪から美を引き出す」と書いたが、「悪」は作品の主題にとどまらない。何かを描くという行為や芸術作品によって魅了することもまた、暴力の行使という一面を持たざるを得ないし、芸術家の方もジャーナリズムや公衆からの暴力を逃れられない。海老根は、芸術的創造をこうした力の葛藤の場と捉えるボードレールの姿勢を紹介する。松澤は文学とモラルを切り離したなどと言われるフローベールの『ボヴァリー夫人』においてブルジョワ道徳が問題視されていることを読み解く。美徳の「報い」を期待する功利主義的な作中人物の傍らで、報われない美徳を生きる作中人物がグロテスクな相を帯びて描かれ、報われない美徳が書く営みにまで及んでくることを明らかにする。ペギーは、1895年の社会党入党直後に三幕劇『ジャンヌ・ダルク』を執筆し、1910年の『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘劇』においてカトリック信仰への回帰を公に示した。北原は、ドレフュス事件、政教分離法等で政治的対立の深まる世紀の変わり目に、ペギーが、ジャンヌを通して、悪の問題をどのように提起したのかを明らかにする。



2015年度秋季大会

ワークショップ6

近代科学と芸術創造

19-20世紀における科学と文学の関係-

2015111日・京都大学)

 

真野倫平(コーディネーター、南山大学)

梅澤礼(コーディネーター・パネリスト、立命館大学)

松村博史(パネリスト、近畿大学)

石橋正孝(パネリスト、立教大学)

橋本一径(パネリスト、早稲田大学)

 

2012年から3年間にわたり、真野の発案のもと、共同研究「19-20世紀のヨーロッパにおける科学と文学の関係」が行なわれた。これは近代の科学や技術が同時代の文学・芸術作品にいかに反映されているのかを、学際的な視点から解明しようとするものであった。その成果は、20153月に出版された共著『近代科学と芸術創造——19-20世紀のヨーロッパにおける科学と文学の関係——』(真野倫平編、行路社)として実ることとなった。本ワークショップでは15名の共同執筆者のうち、4名が代表して報告を行なう。

まず石橋が「科学に共鳴する文学」の例として、当時の科学リテラシーからすれば荒唐無稽だった気球操縦法がなぜゴーティエやユゴーを熱狂させたのかを考察する。次に松村が、「科学を利用する文学」の例として、バルザックが18世紀以前の体質論の医学と、19世紀の観察医学の違いを意識しつつ、2種類の異なる医者像を造形していることを取り上げる。だが科学と文学の関係は必ずしもつねに良好なわけではない。梅澤は「科学に利用される文学」の例として、作家たちによる監獄描写を否定する形で監獄学が生まれたこと、そうした監獄学への反発が作家たちをさらに監獄問題へと駆り立てたことを示す。最後に橋本が、「科学に抗する文学」の例として、ミシンの普及により閉じ込められるようになった女性たちにとって工房が一種の文学的空間となっていたことを明らかにする。

本ワークショップは、従来のアカデミックな文学研究では軽視されがちであった領域に注目することで、文学を、一つの時代を支配する知の制度の一環として考察するものであり、分野・世紀を越えた活発な意見交換が期待される。



2013年度春季大会・ワークショップ1





2013年度春季大会
ワークショップ1
作家の書簡をどう読むか
(2013年6月2日・国際基督教大学)


小倉孝誠(コーディネーター、慶應義塾大学)
桑瀬章二郎(立教大学)
岑村傑(慶應義塾大学)

 誰もが書くという意味で、手紙は普遍的な言説である。しかし手紙の内容と形式、表現様式、それが書き手にとって有する実存的な価値、さらには手紙の交換をめぐる文化的状況は作家によって、時代によって異なる。本ワークショップでは、さまざまな時代の手紙を対象にしながら、文学(者)と手紙の関係、文学としての手紙について考えてみたい。

 家族や、友人や、恋人や、同業者に宛てて、作家たちはしばしば驚くほど数多くの、しかも長い手紙を書き送った。そうした手紙は作家の知的形成、秘めた内面性、文学観、作品の生成などについて多くを教えてくれるから、文学研究者にとっては不可欠の資料である。他方現代では、書簡集を一つのテクストあるいは「作品」として位置づけるという姿勢も認められる。手紙をテクストと見なせば、そこに一定の文体や、レトリックや、主題系を見出すことが可能になる。こうして、たとえば書簡作家としてのフロベールやプルーストに関する研究書が著わされた。また歴史的に見れば、18 世紀末~19 世紀初頭のロマン主義時代以降、手紙のプライベートな性格が強まっていくが、そうしたintimité の表出は、ほぼ同時期に確立した自伝や日記と共通する。手紙と自伝、日記の関係をあらためて考察してみるのも興味深いだろう。

 桑瀬は、啓蒙期の書簡を中心に、これまでの書簡研究の流れを整理したうえで、それが陥った袋小路を指摘し、来たるべき書簡研究の可能性を模索する。誰ひとりとして批判できぬ微視的な視点からの分析は完全に放棄し、誰もが批判しうる巨視的な視点からの仮説を提示してみたい。

 小倉は、19 世紀作家たちの書簡集刊行をめぐる近年の状況を概観した後、エミール・ゾラの手紙にそくして彼が誰に、何のために、どのような手紙を書いたのかを問いかける。他の作家たち(バルザックやフロベール)と比較しながら、ゾラの手紙の特徴を考えてみたい。

 岑村は、20 世紀における作家と手紙の一例として、ジャン・ジュネの場合を検討する。若き日の敬愛する女性への手紙から後年のカフカやデリダについての手紙までを分類しながら——しかし、何を基準に?——、ジュネにおける書くということと、ほかならぬ手紙を書くということとのあいだに、密接な関連を見いだしたい。手紙をめぐっては文学研究の立場からのみならず、文化史や心性史の観点からもさまざまな問題提起が可能であり、その多面性に聴衆と共にアプローチしてみたい。

2013年度春季大会・ワークショップ2





2013年度春季大会
ワークショップ2
来たるべき修辞学
―文学と哲学のあいだで―
(2013年6月2日・国際基督教大学)


郷原佳以(コーディネーター、関東学院大学)
藤田尚志(コーディネーター、九州産業大学)
塚本昌則(東京大学)

 哲学と文学、虚構と真理、虚偽と真実、記述的と行為遂行的の狭間で、もう一度、修辞学に関する事柄、レトリック、比喩、隠喩、アナロジーなどについて再検討してみることで、フランス文学研究に対して何がしかの貢献をできないか。それが本ワークショップの趣旨である。

 たとえばアレゴリー(allégorie)は、all(o)-(他の、異質の)、つまりhétéro-とagoreuein(話す)からなる語であるが、これに対して、tauto-(同じ、等しい)、つまりhomo-という接頭辞を付したtautégorie という造語を提唱したのがシェリングである。ゲーテ以来、「個別から普遍へ」と向かう象徴との対比において、アレゴリーは「普遍から個別へ」と一般に理解されているが、「タウテゴリー」という考え方からすれば、アレゴリー(寓意)は、個別による普遍への接近を目指す。イソップの寓話において、「働き者のアリ」は、「勤勉さ」という抽象概念を理解させようとする。これに対して、タウテゴリー(自意)は、すでに普遍を内包した個別である。ギリシア神話において、「知の女神アテナ」は、単に知という抽象概念へ接近させるのみならず、それ自体が神性という普遍の厚みを持って自存しているものである。このようなアレゴリーとタウテゴリーの区別は、comme si などと同様、真実と虚構のあいだの複雑な関係を照らし出してくれる。比喩形象・文彩(figure)と思考・言語はいかなる関係を結んでいるのか。

 藤田は、ベルクソンにおけるメタファーとアナロジーの用い方が、彼の哲学体系においていかなる役割を果たしているかを解明しようとする。

 郷原は、ミシェル・ドゥギーやデリダがメタファーに関して、また近年ではブリュノ・クレマンがプロソポペイアに関して展開しているように、言語の特殊様態(文彩)というよりも文学さらには言語の根本にあるものとして比喩形象(figure)を捉える見方について考察する。

 塚本は、ヴァレリーにおける「フィギュール」の概念を論じる。『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』以来、ヴァレリーは言葉や概念に基づかない、フィギュール(形象、図形、動作)による思考の可能性を追求してきた。その道筋を、リオタールの『ディスクール、フィギュール』や、ドゥルーズの『感覚の論理』を参照しながら再検討する。言葉によらない、フィギュールによる思考と、修辞学でいうフィギュール(文彩)がどのように関係するかを考え、ヴァレリーの詩学の一面にせまってみたい。

2013年度春季大会・ワークショップ3





2013年度春季大会
ワークショップ3
演出家からみたフランス演劇
(2013年6月2日・国際基督教大学)


岩切正一郎(コーディネーター、国際基督教大学)
鵜山仁(演出家。文学座、新国立劇場演劇芸術前監督)
中村まり子(演出家・俳優。パニックシアター主催)
佐藤康(戯曲翻訳家、明治学院大学非常勤講師)


 演劇は文学の一ジャンルなのか? なかなか難しい問題である。ここでそのような議論に深入りすることは、とりあえず脇にどけておこう。

 文学テクストは読まれる、だが戯曲テクストは演じられなくてはならない。日本で外国作品を上演するには、まずテクストを翻訳する必要がある。が、それはたんなる出発点に過ぎない。そこから演出され演技されて初めて、演劇作品は観客のまえに姿をあらわす。

 今、演出家がフランス演劇に取り組むとき、なにが魅力であり、なにが困難であるのだろう? かつてはモリエールのフランス語上演もあったりしたのに、今、翻訳でも、ラシーヌやモリエールはなぜシェイクスピアやチェーホフのようには頻繁に上演されないのだろうか? フランス演劇には、日本ではなかなかポピュラーになりきれない独特の文学性・思想性があるのだろうか? それとも、古い演出スタイルやイメージを後生大事にしているうちに、フランスで刷新され続けている同時代性から遠ざかってしまったのだろうか?

 舞台の現場でフランス戯曲の演出に、演技に、翻訳に深く関わっている三者をパネリストに迎え、「演出家からみたフランス演劇」についてディスカッションしたい。大学の授業で戯曲テクストへアプローチするときの、あるいはまた、研究対象として戯曲に対するときの、多くのヒントを得ることができればと思う。また、参加者と自由な質疑が交わされることを期待する。

2012年度秋季大会・ワークショップ2




2012年度秋季大会
ワークショップ2
「文学的なもの」の身分規定をめぐって
―ポール・ベニシュー『作家の聖別』翻訳出版を機に―

(2012年10月21日・神戸大学六甲台キャンパス)


小倉孝誠(コーディネーター、慶應義塾大学)
片岡大右(東京大学)
辻川慶子(白百合女子大学)
森本淳生(一橋大学)


ポール・ベニシュー(1908~2001)のロマン主義論四部作(1973~1992)は、18世紀中葉の哲学者たちから19世紀前半の歴史家、宗教者、自由主義者、社会主義者等々の思想的営為までを視野に収めつつ、ボードレールやフローベル(社会への呪詛)を経てマラルメ(社会からの隠遁)に至る近代の文学的冒険の道筋をたどる重要な業績であり、様々な批判や修正的見解にもかかわらず、今日のフランス文学史の基本的なパースペクティヴを規定し続けている著作ということができる。さらにまた、最初の二巻―とりわけ『預言者の時代』―に関しては、近代の脱宗教化のプロセスにおける精神的諸価値のありかを問う文脈では、社会科学の諸分野においても必読の参考文献となっている。すでに古典としての地位を得ているこの連作の翻訳プロジェクト(水声社刊)の第一弾として、本年秋に第一作『作家の聖別』が刊行されることになっており、一年後には第二作の『預言者の時代』が続く見込みである。本ワークショップでは、小倉の司会進行のもと、まずは監訳者の片岡が全般的なプレゼンテーションを行う。ついで共訳者のひとり辻川が、ネルヴァルとその周辺を論じながら、ベニシュー的問題設定の射程を推しはかる。最後に森本が、マラルメ/ヴァレリーにおける「純粋文学」の戦略の分析を通して、ベニシュー以後今日に至るまで盛んに論じられている―例えばジャック・ランシエールの業績―、近代社会における「文学的なもの」をめぐる議論に、新たな光を投げかける。本ワークショップが、ベニシューの業績の(再)検討を超えて、非宗教的な精神的権力の形成とそこでの「文学的なもの」の身分規定をめぐる議論の、活性化の契機となることを期待している。


 

2012年度秋季大会・ワークショップ4





2012年度秋季大会
ワークショップ4
ソシュール没後100年―100年の言語学
(2012年10月21日・神戸大学六甲台キャンパス)


金澤忠信(コーディネーター、香川大学)
阿部宏(東北大学)
加賀野井秀一(中央大学)
鈴木隆芳(大阪経済大学)
松澤和宏(名古屋大学)

フェルディナン・ド・ソシュールは1913年2月22日に55年の生涯を終えた。2013年が没後100年にあたるわけだが、本ワークショップは100回目の命日を前にして、ソシュールについて語るために、企画されたものである。ソシュールの死から100年後に、言語学においてこの100年間になされたことを列挙するだけでは、つまり「言語学の100年」を語るだけでは不十分である。むしろ彼の切り開いた言語学の地平そのもの、いわば「100年の言語学」を語らねばならない。我々は今なおまさにその地平に立っていながら、ソシュールを前世紀の遺物として葬り去ろうとしている、あるいはすでに葬り去ったと思い込んでいるだけかもしれないのだ。ワークショップではまず、ソシュールが19世紀の歴史比較言語学や文献学の分野でなしたこと、および20世紀の構造主義思想との関わりや、認知言語学からの批判などについて概説する。そのあと比較的個別的な事例について検討する。具体的には、①構造主義的な音韻論とソシュールの言う「音声学」を比較し、両者の違いを明確にしたうえで、ソシュールの真の意図について探求する。②ソシュール没後50年に記念講演を行ったバンヴェニストが、2012年に出版された論集ではかなり批判的にソシュールに言及していることについて考察し、ソシュールとバンヴェニストが抱えた問題の本質的な差異について再検討を試みる。③一般言語学に関する草稿を収録した Écrits de linguistique générale(Gallimard, 2002)の校訂上の問題点を指摘したうえで、ソシュールにおける「書物」あるいは「順序」の問題を提起する。

2012年度春季大会・ワークショップ1





2012年度春季大会
ワークショップ1
教育実情調査報告 ─ 日本のフランス語教育の現在と今後の展望
【日本フランス語教育学会との共催ワークショップ】
(2012年6月3日・東京大学本郷キャンパス)


小野潮(コーディネーター、中央大学)
北山研二(成城大学)
白井恵一(東京女子大学)
大槻多恵子(聖ウルスラ学院英智高等学校)
山崎吉朗(日本私学教育研究所)

 フランス語のみならず日本の外国語教育をめぐる状況は近年劇的な変化を見せつつある。その中には、さまざまな外国語に直接触れる機会が飛躍的に増大したというような肯定的変化もあれば、大学大綱化以来、外国語学習に割かれる授業時間が減少しつつあるという否定的な変化もある。そのような状況の中で、日本におけるフランス語教育をめぐる状況の実際はどのようになっているのかを知ることが、われわれが今後のフランス語教育の方向を考えていくために重要であることは論を待たない。日本フランス語フランス文学会ではこれまでも、1978年、1980年、1985年、1989年、1995年、1999年と継続的にフランス語教育実情調査を過去6回行ってきたが、今回は、やはり日本におけるフランス語教育に強い関心を抱く日本フランス語教育学会と合同で調査にあたった。調査対象は教育機関、教員、学生と多岐にわたるが、本ワークショップでは、調査結果に関して、大学機関等(小野)、大学生(北山)、中等教育機関および高校生(大槻)、教員(白井)、統計的見地(山崎)、それぞれの視点からコメントするとともに会場にお越し頂いた皆様と広く意見交換を行い、日本におけるフランス語教育の今後の展望について考察する。

2012年度春季大会・ワークショップ2




2012年度春季大会
ワークショップ2
いかにしてフランス映画を教えるか?―方法論的エスキス
(2012年6月3日・東京大学本郷キャンパス)


野崎歓(コーディネーター、東京大学)
中条省平(学習院大学)
伊藤洋司(中央大学)


 教育の場におけるフランス語、フランス文学の衰退が言われて久しい。その対抗策として、映画を教材に用いる教師は少なくないが、実際のところ授業はどのように行われているのだろうか。いったい何を、どう教えるべきなのか。映画論の授業を担当し、また映画について評論活動も行っている三人が、それぞれの経験にもとづき率直に語り合った。

 中条は、教師は数ある映画の中からある種、残酷な選別・排除の上で、歴史的に評価しうる作品を自分の責任において選び出すことがまず必要であると説く。そうした姿勢の倫理性が、映画を教える際のよすがとなる。
 伊藤は、大学の講義で映画の技術や知識を説明することはいくらでも可能だが、映画において本当に大事なものは教えられないと考える。だが悲観する必要はない。そもそも映画の特質は、否定表現を知らず、肯定表現しかないことにある。映画を通じて、学生は世界を肯定する精神に触れることができるのだ。

 野崎は、文学と映画のあいだを行き来する授業の可能性を強調する。どちらがより優れているかという視点で考えるのではなく、それぞれに固有の表現形式に目を開き、そこに広がる豊かな物語性に身を浸すことは、学生にとって意義ある体験となるのではないか。