Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

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2008年1月19日 13時53分 [WEB担当]

2007年度秋季大会ワークショップ1

WS

1930年代シュルレアリスムの政治と美学

パネリスト:鈴木雅雄(早稲田大学)、初見基(東京都立大学、ドイツ文学)、永井敦子(上智大学、コーディネーター)

30年代ブルトンの自動記述論の政治的位置
永井敦子

 30年代前半のブルトンは、「革命的社会活動と直結しつつ、既存の政治活動には従属しない」創造行為の可能性を模索していた。しかしブルトンが評価するのは専らランボーやジャリなど遡及的文学モデルであり、同時代の政治体制やイデオロギーには否定と抵抗の対象ばかりで支持する対象は見出さず、フロイトにマルクスを接続させる試みも、被植民者や労働者の解放を自己の精神の解放の前提とすることでその逆ではなかった。結局彼の意図と行為は、政治的な有効性から見れば、思いこみの強い芸術家の無力な饒舌と非行動主義でしかなかったと言えるかもしれない。

 35年の講演「今日の芸術の政治的位置」でブルトンは、政治的行動と文学創造をめぐるこうしたジレンマの問題を論じている。この講演では「シュルレアリスム宣言」時から詩的創造の中心的方法であり、詩や芸術の解釈モデルでもあったオートマティスムに、41年のアメリカ亡命以降、彼の中心的なテーマのひとつとなった神話の問題が接続されてもいる。ここでブルトンは、超自我、自我、エス(ここではソワ)からなるフロイトの自我モデルを用い、オートマティスムは自我と超自我の歩き馴れた小路から離れて、広大で未開のソワの地帯へ下ろす測深鉛であると説明する。ブルトンは、オートマティスムはブルジョワ社会を支配する所有欲に通じる個性を放棄するための手段であり、それによって芸術家が手に入れるのは「集合的宝」の鍵であり、シュルレアリスム芸術は「個人的神話」ではなく、「集合的神話」の創造をめざすと説く。すなわちここでオートマティスムは、日本におけるシュルレアリスムの受容や批判の歴史にもその傾向が見られたような、深層の自己や抑圧された自己の解放、主観性追求の手段として捉えられているわけではない。さらにブルトンはここで、個人主義がソ連やファシズムの全体主義の歯止めにならないのは、それらが結局同じ根を持っているからだと指摘する。つまりブルトンは集合性を、個人主義と全体主義の間の第三の道として考えているわけではないのだ。

 こうしたブルトンの個人主義批判を、19世紀のトクヴィルなどからのフランスの個人主義批判の流れに位置づけることもできよう。特に個人主義と全体主義に同じ根を見る考えは、ブルトン以降の個人主義批判のなかでは、80年代の人類学者デュモンのそれとも共通性がある。一方ブルトンの言う「集合的」の意味するものは何か。個人でない複数性か、信条や教義や神話を共有する集団や共同体か、あるいは「人間」一般まで拡大して考えているのか。もしくは創作的共同作業や芸術作品の受容行為によってその都度出来するものか。この問題を考えるにあたっても、”individuel”と”collectif”の対立概念の系譜を確認する必要があるが、ここでは、バタイユが同時期に集団的なものに否定性を見る系譜に依拠して「ファシズムの心理構造」を説いたのに対して、ブルトンは個人を超えた集合的な心性や表象の存在に人間社会の自然なありかたを見る系譜に沿っており、35年のコントル=アタックの挫折には、ふたりのこのずれも関係しているように思える点を指摘しておきたい。

〈集合〉の両義性──W・ベンヤミン「シュルレアリスム」を中心に
初見 基

 運動としてのシュルレアリスムはドイツにおいて存在しなかった。1920-30年代,ヴァイマル文化という時代文脈で政治と芸術の交錯に限定してみるならば,政治カバレット,あるいはダダの流れをくむジョージ・グロスやジョン・ハートフィールドの営為に顕著なように芸術は社会批判のための政治的手段として使用されるのが主流だった。それに対してヴァルター・ベンヤミンはそれらとは別なかたちでの〈芸術の政治化〉の可能性を模索していた。その過程で彼はシュルレアリスムにも着目する。

 ベンヤミンのエセー「シュルレアリスム──ヨーロッパ知識人の最近のスナップショット」(1929年発表)はドイツ語圏での早いシュルレアリスム紹介になるが,ベンヤミン受容のなかでは「パサージュ論」の前段階として位置づけられることが多く,同時代のシュルレアリスムと渉りあったエセーそのものの独自性はこれまで必ずしも評価されてきていない。

 このエセーでベンヤミンは,シュルレアリスム的反抗(Revolte)を革命(Revolution)へと転化する可能性を語っている。その内実は明快なかたちで表わされていないが,〈陶酔の力〉によって理性的な〈個〉が〈集合〉へと解体してゆく点に積極的な意味づけがなされていた。

 その際にベンヤミンが参照しているシュルレアリスム作品はアラゴンの『パリの農夫』とブルトンの『ナジャ』が中心となるが,これらの作品に現われる〈開いた扉〉〈ガラスの家〉〈オペラ座パサージュ〉などの形象に彼は〈個〉の解体の契機を見いだしている。また,室内でありながら同時に街路であるという〈パサージュ〉のあり方にとりわけ触発され,後に「パサージュ論」として繰り広げられる構想の端緒がここにひらかれている。

 ベンヤミンのエセーのなかでは,シュルレアリストが試みた自動筆記について触れられていない。またこのなかで彼はシュルレアリスムの〈オカルト〉趣向には否定的に言及している。ここからはベンヤミンのシュルレアリスム評価がきわめて限定されたものであったと判断されるとともに,当時の時代的文脈のなかで,〈個の解体〉〈集合〉といった言説もまた非合理主義の暴力へと回収されかねない危うさを伴っている点にベンヤミン自身ある程度自覚していたことを推測させる。さらに後の「パサージュ論」のなかには,アラゴンの空間意識は無時間的であるという批判的な評価をくだした記述も見いだされる。

 本発表の枠を越えてはいるがこうした点をさらに考察してゆくならば,シュルレアリスム論以後のベンヤミンはナチズムなどの全体主義政治体制の否定的現実に直面するなかで,シュルレアリスム論で打ち出していた〈個〉の〈集合〉への解消という構想への一定の修正の必要性を感じていたことがうかがえる。そして最晩年にはその克服を〈歴史的追想〉のなかに賭けたと解しうるが,しかしまたそこでも同様な危うさは払拭されていないというのが発表者の見解である。 

マルクス主義(から)の解放――ニコラ・カラスと1935年以後のシュルレアリスム美学
鈴木雅雄

 1935年、フランスとソビエトの相互援助条約締結や、国際作家会議の不本意な結果などを背景に、シュルレアリスムは共産党との関係を清算し、第3インターの政治路線から離脱していくが、これによって逆説的なことに、マルクス主義の思想をより自由に援用できるようになったという側面もある。この局面を考えるために、30年代中ごろにパリ・グループと合流したギリシャ出身のシュルレアリスト、ニコラ・カラス(1907-1988)の理論書『発火地点Foyers d’incendie』(1938年)は、興味深い材料を提供してくれる。

 シュルレアリスムが思想的ディスクールと積極的に関わらざるをえなくなった30年代前半の代表的な理論書、ルネ・クルヴェルの『ディドロのクラヴサン』(1932年)などと比較しても、カラスによるマルクス主義の利用法は非常に自由なものである。一方で強引にフロイト理論を作りなおしつつ、他方ではその作り変えられたフロイトを用いて階級闘争史観をも作りなおしていると思えるからだ。カラスはフロイトの天才的な発見のなかで、「死の本能」という概念だけはまったく恣意的な仮説だと考える。当時の生物学の知識を援用しながら、単細胞生物は分裂を繰り返して永遠に生き続けるのであり、フロイトが「死の本能」と見なしたのは、実はこの不死の状態に帰ろうとする「回帰の本能」だったと主張するのである。他方カラスにとって社会革命とは、父性的権力を廃棄することによってオイディプス・コンプレックスそのものの消滅へと導くものなのだが、父性的な抑圧がなくなったとき上記の「回帰の本能」は母体内回帰願望という形で前面に押し出されるのであり、ここで新しい環境に適応しようとする「適応の本能」が勝れば革命は成功するが、「回帰の本能」が勝ればファシズム的退行に陥るというのが『発火地点』の結論であった。

 たしかにカラスの理論はしばしば荒唐無稽であり、さまざまな曖昧さや危険性をさえはらんでいる。だがこうしてシュルレアリスムは、社会革命によっても解消されない美学的問題の存在を強調するといった消極的な立場にとどまるのではなく、個人レベルで作動する欲望自体を(そしてある意味での美学的次元を)、社会革命のあり方を左右する要因として思考するための理論モデルを発明したともいえる。そしてこうしたことが可能になるのはシュルレアリスムのなかに、フロイトやマルクスを信奉し模倣するのではなく、理論家による理論創設の身振りを反復することで、既存のものとは異なったいわば自分用の理論を作り出さねばならないという要請が存在していたからではなかろうか。理論は理論である以上、何らかの普遍性を持たなくてはならないが、シュルレアリストたちはあくまでそこに「私」の烙印を押すのであり、自分の意識に現れてしまう直接的なものを否定することなしに理論とつき合おうとするこの意志こそが、30年代シュルレアリスムの常数であった。そしてマルクス主義のディスクールを自由に用いるための条件が与えられた30年代後半、この要請をもっとも極端な形で実践したのがニコラ・カラスだったのである。