Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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書評コーナー

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2008年1月18日 13時55分 [WEB担当]

2007年度秋季大会ワークショップ2

WS

第一次世界大戦とモダニズム

 第一次世界大戦という出来事の意味を、感覚や精神の変容という観点から幅ひろく捉えることを目的として、ワークショップ「第一次世界大戦とモダニズム」を企画した。パネリストに迎えたのは宇佐美斉(フランス近代詩・京都大学名誉教授)、岡田暁生(西洋音楽史・京都大学)、河本真理(西洋近現代美術史・京都造形芸術大学)の各氏。コーディネーターは久保昭博(20世紀フランス文学・京都大学)が担当した。時間の都合で充分な議論はできなかったが、それぞれの報告をつきあわせることで、この時代を生きた芸術家の諸相がジャンルを横断するかたちで明らかになり、問題発見的なセッションになったのではないかと思う。以下はそれぞれの報告の概要である(報告順)。

戦争と恋 あるいはモダニズムの試練
宇佐美斉

 世紀の交替に立ち会った詩人アポリネールの文学には、社会生活全般にわたる革新に眼を見張る素朴な精神の輝きがうつし出されている。モダニズムを「新しさ」の探究と「直前の伝統」への反逆と要約するなら、彼はその精神を最も見やすい形で体現した芸術家の一人であった。大戦開始の前年に「キュビスムの画家たち」についての一連のエッセーを発表すると同時に、巻頭詩「地帯」の冒頭でモダニズムを謳歌する詩集『アルコール』を公刊し、引き続いて詩篇「窓」において「同時性の手法」を実践して、前衛芸術運動の先駆者としての相貌を鮮明にした。ただし象徴主義の影響下に出発したこの詩人の根底にあるものは、観念論と精神主義の支配による秘教性の陥穽から脱却して、日常的現実と具象性の共存へと向かう性向であった。実験的な試みとして評価される「会話詩」を支えたものは、むしろ広義のナチュリスムに隣接するこうした傾きであろう。大戦をくぐり抜けることによってアポリネールは、こうした革新性と本来の性向とにどのような折り合いをつけたのであろうか。

 第一次世界大戦下のアポリネールのもっとも生産的な執筆活動は、恋愛詩と恋愛書簡に向けられた。ルーとマドレーヌと呼ばれる二人の女性に宛てた書簡がその代表であるが、ここではルーに宛てた一通の手紙と一篇の恋愛詩のみを取り上げる。(1)1915年5月17日付の手紙。軍帽姿の詩人の横顔とやはり帽子を被った恋人の横顔が細かい文字の間から浮かび上がるように描かれている。Lettre(文字=手紙)は、愛の障害のメタファーであると同時に、愛の悦びをもたらすかけがいのない手段でもある。「生きる」ことと「書くこと」の転倒であり、作家の恋文があぶり出す「倒錯」の好例でもある。(2)1915年1月30日付の書簡詩は、激戦地シャンパーニュ地方への出動を間近にひかえた詩人が、南仏ニームの兵営から恋人へ宛てたものであり、死への予感に貫かれた恋人への悲痛な遺言の詩である。現実の愛を失うことに対する無意識の恐れと不安が背後に隠されており、いわば失愛と死に対する二重の抵抗が、血による祝祭によって自己を世界に遍在させる、という超越への願いとなって現れている。

 表現の虚飾をそぎ落して、いわばエクリチュールの零度に位する言葉によって紡がれるテクスト。書簡に含まれるカリグラムもまた、表現手段の革新というよりは、むしろ素朴な本然主義への回帰を思わせる。生の原形質そのものに立脚するこうした言葉の重みにくらべれば、詩人が前線で負傷した後に行った名高い講演「新精神と詩人たち」は、その昂揚した言説とはうらはらにどことなくうつろな響きを奏でる。アポリネールの晩年のポジションは、遺言詩と目される詩篇「かわいい赤毛の女」に、「旧いもの」と「新しいもの」、「秩序」と「冒険」の二極に引き裂かれて逡巡する魂のきしみとして明示される。《無限と未来の辺境で/つねに闘っている私たちを憐れんでやってくれ》。前線にあって未来を望み見ながら新旧二つの世界に宙づりになった詩人の姿、こうした視点から詩篇「地帯」をあらためて振り返ってみると、ユダヤ=キリスト教的な直線的時間に対する螺旋状の時間、つまりアンモナイトの紋様の夢が、全体の構造として浮かび上がってくるのである。

切断の時代―第一次世界大戦前後の美術の諸相
河本真理

 20世紀美術は、断片化と綜合という、相反する極の間を絶え間なく揺れ動いてきた。本報告では、「第一次世界大戦とモダニズム」というテーマを、主に造形芸術の観点から考察し、そうした美術の諸相を提示する。

 第一次世界大戦が美術に及ぼした影響、あるいは第一次大戦と美術との関わりということを考えると、美術の側の反応は様々であり、通り一遍ではない。往々にして、戦争の破壊がダダのニヒリズムを生み出した、言語の統一性やシンタックスを解体した、あるいは既成の美術の概念を揺さぶったと言われるが、第一次世界大戦という歴史上の切断面と美術史上の切断面は必ずしも一致しておらず、そうした傾向は第一次大戦以前にすでに始まっていた。オブジェを解体することによって、絵画や言語のシンタックスの解体に先鞭をつけたのはキュビスムや未来派である。

 とはいえ、コラージュが制作されるようになった1912年は、第一次大戦の前哨戦とも言えるバルカン戦争が勃発した時期に相当しており、ピカソは、バルカン戦争に関する新聞記事を貼り付けたコラージュを制作している。こうしたコラージュにおいて、ピカソがどの程度政治的意志を表明しようとしたのかということについて激しい議論が巻き起こった。しかし、このような議論の紛糾は、ピカソがコラージュを制作した当初、公に展示されておらず、きわめて限られた人しかそれを知らなかったという歴史的事実と、後世の美術史家に開かれている幅広い解釈の可能性という、全く違うレベルの話を明確に区別しないことから生じていると思われる。

 当時の芸術家たちの中には、第一次世界大戦に自ら志願して従軍し、戦死した者も多い。戦場の悲惨で過酷な経験を描いた画家としては、ジョージ・グロス、マックス・ベックマンやオットー・ディクスらがおり、文字通り戦争によって切断された身体を表象している。

 戦争によって破壊されることになる秩序を回復しようとする願望の表われとして、第一次世界大戦開戦後の1914年頃から、キュビスムや未来派に共通して、「秩序への回帰」と言われる傾向が見られるようになる。アヴァンギャルドが、古典に範を求めて、伝統的油彩画を描くようになるのである。

 第一次世界大戦は、「秩序への回帰」を促す一方、既成の芸術の概念を否定するダダの運動を加速させた。ダダイストのアルプは、紙片を地に撒き散らして、「〈偶然の法則〉によって配置されたコラージュ」を制作したが、ここでは、芸術家によるコントロールへのアンチテーゼとして、偶然を意識的に用いるという戦略的な方法が取られている。

 第一次世界大戦は、機械・速度・ダイナミズムという未来派の美学を具現化した全体戦争であると同時に、世界の経験を断片化していくものでもあった。「断片化」による喪失を埋め合わせるべく、統一性と全体性を希求するという「綜合芸術作品」の理念が、この時代の芸術に重要な位置を占めるようになる。「綜合芸術作品」の理念自体は、19世紀半ばにヴァーグナーが提唱したものだが、それは未来派、ダダ、バウハウス構成主義、クルト・シュヴィッタースの「メルツ綜合芸術作品」などに形を変えて受け継がれ、第一次世界大戦以降も多くの芸術家を魅了し続けたのである。

戦争小説と口語・俗語文体

久保昭博

 20世紀初頭の小説を特徴付けた現象のひとつに、俗語や口語文体の積極的な導入がある。サンドラール、セリーヌ、クノーらモダニズムの影響下にある作家によって発展させられたこの文体は、美学的な問題であるのみならず、社会的、政治的な意義を持っていた。まずそれは、方言のミメーシスとなるとき、地方主義と結びつく。スイス、ヴォー州の言語で書いたラミュ、プロヴァンス出身のジオノがその代表格である。次に、口語・俗語文体は、民衆の表象と結びつく。そして支配階級によって規範化された書き言葉という概念に対置されることで、イデオロギー的な対立構図が生ずる。最後に、この文体は、「生の自発的発露」として考えられる。こうした思想をひろめたのがシャルル・バイイやジョゼフ・ヴァンドリエスといった言語学者であり、彼らはクノーやサンドラールらの理論的支えとなった。こうして(民衆的)口語が言語活動の本来的な姿とされることにより、文学的な賭け金となる。

 ところで興味深いのは、口語・俗語文体の擁護者が、しばしば第一次世界大戦を主題にした戦争小説を書いていることである。この点で最も注目すべきは、1916年に出版され、驚異的な売り上げを記録すると共に戦争小説の典型となったアンリ・バルビュスの『砲火』である。バルビュスは自らの従軍体験をもとにこの小説を手記の形式で書いたが、そこで文学的規範に背馳する口語・俗語表現を敢えて用いることで「真の兵士の姿」を表象する意図を、語り手の「私」に強調させている。こうしてたとえば、リール出身の炭坑夫である一兵士の方言が、異様なほど忠実に再現されることとなるのである。

 バルビュスとともに、口語・俗語文体はその民衆表象と地方主義に加え、革命と連帯という射程を持つようになったのだが、彼がこのような言語意識を抱くに至った一要因として、大戦が作り出した特異な言語状況があるだろう。その現れとして戦争開始後次々に出版される「兵士の俗語」辞典を指摘することができる。これらは、帰還兵たちの話す言葉があまりに独特で理解不能という状況に直面した物書きたちによって、愛国心と好奇心とが混ざった動機から編まれたものだが、そこに並ぶ方言、外国語、兵器や兵隊生活にまつわる隠語から、「塹壕の共同体」ではクレオール的とも言える言語状況が生じていたことが知られる。バルビュスは、これを描くことなしに戦争文学のリアリズムはあり得ないと認識したのである。

 だが、第一次世界大戦が文学にもたらした衝撃はそれだけでない。逆説的なことに、大戦を描く文学作品が量産される一方で、兵士たち自身はそれらの中に自らの姿を認めず、沈黙するばかりだったと言われる。ジャン・ポーランが「言語の病」と呼んだこの沈黙が示す言語不信は、大戦中に青年期を迎えた作家に共有されているが、このように生が言語から乖離する様を、生の発露と見なされる饒舌な口語・俗語文体で表現するという逆説を正面から引き受けたのが、セリーヌであった。『夜の果てへの旅』の口語・俗語文体から発散する強烈なアイロニーは、生の発露ではなく、第一次世界大戦によって開示された巨大な死に飲み込まれそうになる人間の恐怖、憎しみという「情動」の産物である。

ストラヴィンスキー『兵士の物語』と亡命音楽のはじまり?
岡田暁生

 ストラヴィンスキー《兵士の物語》(台本ラミューズ)は、1917年から作曲が始まり、第一次世界大戦終結直前の1918年9月29日にローザンヌで初演された。大戦当時スイスに亡命していたストラヴィンスキーのこの音楽芝居は、彼の世界大戦経験の最も端的な刻印と見なすことができる。世界大戦前にパリで初演された《火の鳥》(1910年)、《ペトルシュカ》(1911年)、《春の祭典》(1913年)で音楽界の寵児となったストラヴィンスキーであるが、《兵士の物語》をこれら三大バレエから区別するのは、色彩の拒否(=モノクロームな響き)であり、構成原理としての反フィナーレ性(=音楽の円滑な流れの意図的な切断)である。

 《兵士の物語》は、ナレーションおよび三人の俳優および七人の奏者(ヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ファゴット、コルネット、トロンボーン、打楽器)から成る。これはミニシアターであって、ストラヴィンスキーが構想したのは従来のオペラと一線を画した、旅回りの一座の出し物のような演劇だった。オペラが急激に没落し始めるのは大戦後の1920年代の音楽史の特徴の一つであり、これは19世紀における音楽文化の担い手であった上流ブルジョワの没落と関係していたが、《兵士の物語》で意図されている色彩感を欠いた(いわばチンドン屋のような)「素寒貧な響き」は、ブルジョワ的オペラ的音楽文化の「奢侈」からの訣別であった。

 《兵士の物語》のもう一つの特徴はコラージュである。ここでストラヴィンスキーは、ほぼ全曲を「ワルツ」「行進曲」「コラール」といったステレオタイプな様式の継ぎ接ぎで作った。音楽が有機的な流れを作り高揚していく代わりに、誰もがいつかどこかで耳にしたことのある色々な「決まり文句」ばかりが、互いに意味ある脈絡を形成することなく貼り付けられているわけである。そのさまは外国人がどこかで聞き覚えた片言ばかりを並べ立てて何かを話そうとしている様子を連想させ、第一次大戦前のストラヴィンスキー最大の売り物であったロシア風民族色がまったくここでは現れないことを考え合わせると、《兵士の物語》は一種「亡命者の音楽」であるといえる。

 しかもここで並べられるのは、歴史的出自がまったく異なる諸様式である。タンゴは19世紀末の南米で生まれたジャンル、ワルツは19世紀ウィーンで流行、コラールはバロック時代のプロテスタント・ドイツの聖歌であって、本来一つの曲の中で同居しているはずはない。つまり《兵士の物語》においては、歴史上の諸様式がその歴史的地域的文脈や含意を解体され、単なる音響マテリアルとして処理されている。この「意味」の拒否は、同時代のロシア・フォルマリズムの文学理論や(ストラヴィンスキー自身も認めていたように)ジョイスの『ユリシーズ』、あるいはコクトーによるギリシャ悲劇の翻案などとも共通する、1920年代のストラヴィンスキーの創作の特徴である。