cahier第31号が発行されました
2023年3月29日 11時24分 [sjllf]cahier第31号が発行されました。
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小倉康寛『ボードレールの自己演出―『悪の花』における女と彫刻と自意識』(みすず書房、2019)の書評が届きました。こちらからご覧ください。
Éric Bordas (dir.), Balzac et la langue, Paris, Éditions Kimé, 2019の書評(自著紹介)が届きました。こちらからご覧ください。
足立和彦『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』(水声社、2017年)の書評(自著紹介)が届きました。こちらからご覧ください。
松本陽正『『異邦人』研究』(広島大学出版会、2016)の書評(自著紹介)が届きました。こちらからご覧ください。
木村哲也『フランス語作文の方法(表現編)』(第三書房、2016)の書評(自著紹介)が届きました。こちらからご覧ください。
I 2008年度秋季大会の記録 | ||
〈特別講演〉 | ||
La correspondance de Flaubert | Yvan LECLERC | 1 |
〈ワークショップ〉 | ||
1 ネルヴァルの現代性を探る―生誕200年に際して | 朝比奈美知子 | 3 |
水野尚 | 5 | |
湯澤英彦 | 5 | |
野崎歓 | 6 | |
2 ポストコロニアルとフランス語表現作家 | 立花英裕 | 7 |
3 フランス文学とベルギー | 海老根龍介 | 10 |
岩本和子 | 11 | |
吉村和明 | 12 | |
田母神顯二郎 | 13 | |
4 Pourquoi enseigner le cinéma? | Olivier Ammour Mayeur | 14 |
II 書評 | ||
Guillemette Marot et Tomoko Nakayama (éd.), La Française italienne, L’Italienne française, Le Retour de la tragédie française | 鈴木康司 | 16 |
松澤和宏編『バルザック、フローベール―作品の生成と解釈の問題』 | 和田章男 | 17 |
大鐘敦子『サロメのダンスの起源―フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド』 | 上村くにこ | 19 |
Flaubert utilise à plusieurs reprises l’expression « style épistolaire » dans sa correspondance : c’est donc pour lui une catégorie constituée, qui fait l’objet d’un apprentissage et d’une reconnaissance scolaire, académique ou mondaine. La lettre à la vicomtesse Lepic (?) du [4 décembre 1871] (Corr., t. V, Suppl., p. 1052-1053) est à cet égard exemplaire : Flaubert multiplie les notes pour identifier les styles qu’il utilise. Cette lettre purement informative (il s’agit de déplacer un rendez-vous) vaut, non par ce qu’elle dit, mais par le discours constant qu’elle tient sur ses formes et sur son contenu.
Il arrive que Flaubert commente également, en plus de l’elocutio, la dispositio de la lettre. Faute d’un discours positif sur la bonne organisation de la lettre, les autocritiques sur les lettres mal tournées, mal venues, pourront servir de critère d’appréciation. On pourra lire la lettre adressée à l’éditeur Charpentier le [16 mai 1879] (Corr., t. V, p. 638), dont voici le post-scriptum : « Ma lettre est bien mal rédigée et pleine de choses qui m’exaspèrent. Mais je suis trop éreinté pour faire mieux. » À première lecture, aucun défaut ne saute aux yeux. Mais on se rend compte que Flaubert a dû être sensible à la discontinuité du propos, sensible par l’absence des connecteurs logiques. À lire de plus près, on perçoit les « choses » qui peuvent exaspérer l’auteur : des répétitions de tournures, de mots et de sonorités. Flaubert gueule-t-il ses lettres comme sa prose ? Probablement non, mais une simple relecture suffit à réveiller son oreille interne.
Les trois questions que nous avons posées apparaissent finalement interdépendantes : la prévision de l’édition, la valeur littéraire et la conscience générique ou rhétorique. Si Flaubert épistolier se relit, se commente, s’autocritique, n’est-ce pas en raison de la considération d’un public lointain, au-delà et après le destinataire singulier ? On ne saurait l’affirmer, car Flaubert n’a cessé de répéter qu’on se devait à soi avant de se devoir aux autres et que le premier impératif de l’écrivain était de se plaire à soi-même. Il reste que la lettre est un genre codé, un lieu de rencontre entre des voix et des styles, un texte intime habité par un intertexte public, un je(u) avec le tu et avec l’Autre. Chaque lettre comme chaque œuvre a sa poétique « insciente », sa poétique interne qu’il faut dégager.
À la suite de l’exposé, des questions ont été posées sur l’esthétique qu’il est possible de formuler à partir de la Correspondance et sur la valeur de vérité que l’on peut accorder à la célèbre déclaration épistolaire du « livre sur rien ».
ネルヴァルの現代性を探る―生誕200年に際して
パネリスト 朝比奈美知子(東洋大学・コーディネーター)、水野尚(関西学院大学)、湯沢英彦(明治学院大学)、野崎歓(東京大学)
今日に至るまでネルヴァル研究は、文献学的研究、神秘主義的解釈、テーマ批評、あるいは構造主義などと、時代の文芸思潮の影響を受けながらこの詩人のさまざまな側面を明らかにしてきた。一方、Cl・ピショワ、J・ギヨームによる精密なテクスト校訂が進められてプレイアード新版の全集(1984-93)が編まれ、実証研究の新たな側面を開いた。以後、この新たなテクストに依拠しながらフランス内外でさまざまな研究成果が精力的に発表されている。一方、日本においては筑摩書房より中村真一郎・入沢康夫監修、田村毅・丸山義博編集の新版『ネルヴァル全集』(1997-2003)が刊行され、研究者はもちろん一般の読者にもネルヴァルの魅力を新たに提示した。2008年はネルヴァル生誕200年にあたり、フランスのスリジー=ラ=サルにおいて国際学会(J.・ボニー、G・Ch-マランダン、水野尚主催)が開催され、世界各国から集まった研究者が発表と意見交換を行った。ひとつの節目を経た今、われわれはネルヴァルの作品をどのような角度から読むことができるだろうか。このワークショップにおいては、ネルヴァルのテクストの再読、エクリチュール生成の現場の検証、受容史の検討、そして現代文学とネルヴァルの接点の検討を通じ、ネルヴァル作品の新たな読みの可能性の提示を試みた。パネリストの発表はそれぞれ異なる観点からなされ、時として意見の違いを浮き彫りにしつつも、たがいに有効に補完しあい、ネルヴァルの多様な魅力の一端を提示することができたのではないかと考えている。以下、それぞれの発表の要旨を発表順に記す。(コーディネーター・朝比奈美知子)
1.都市の放浪者ネルヴァル
朝比奈美知子
生涯を通じて放浪者であったネルヴァルの道程は、パリへと収斂する。首都における放浪は、「近代」という時代の病理をみずからに刻みながらそこからの逸脱の可能性を探ったひとつの想像力の運動を垣間見せるものとなっているように思われる。
『オーレリア』は「現実生活への夢の氾濫」を語る物語だろうか。それはむしろ、ピエール・パシェが看破したように、睡眠と夢の喪失の物語である。実際、『オーレリア』にしろ『十月の夜』にしろ、パリの放浪の物語は、いずれも執拗なまでに不眠を物語る。ネルヴァルは自らの放浪を「地獄下り」に譬えているが、このモチーフの変貌も注目に値する。古来地獄下りとは、現世の迷いを打開するための試練であり、ダンテにおいてはとりわけ、放浪者は、眠りという象徴的な死を経て新たな生の霊感を攫んだ。しかしながら、光の都パリで眠りを奪われた放浪者は、地獄(=眠り)への沈潜を禁じられ、永遠に睡眠と覚醒の中間、つまり煉獄をさまよう。彼の視線がせわしない移動の中で拾うものはすべて、太古の起源との結合を阻まれ、断片となって浮遊する。
都市における睡眠と夢の喪失は、一方では、ネルヴァルの個人的かつ内面的な喪失、つまり狂気、愛する女性や母の喪失、自己同一性の揺らぎを象徴する。他方それは、近代都市パリの病理に根ざしている。放浪者に地獄下りを禁じるのは、じつは、闇を放逐した光の都市パリなのだ。ネルヴァルの喪失はつねに、個人・内面的レベルと、社会・歴史的レベルの重層性を孕んでいるのである。
しかし、そうした二重の喪失の中でネルヴァルは、脈絡のないイメージの氾濫と化した都市の相貌に、近代文明に「バベルの災厄」(=起源から切り離され統一を失った混乱としての言葉の世界の出現)を見たフーコーのごとき視線を投げていたのではないか。また、偶然に導かれ徹底した受容に徹する彼の視線は、すでにシュルレアリストのそれを予感させないだろうか。そうした霊感は、ネルヴァル自身の中では、いまだ名指されない状態に留まっている。しかし、負の土壌の中で格闘しながら、彼はすでに未来の想像力の運動を生きはじめていたように思われるのである。
2.コピー・ペーストの時代にネルヴァルを読む
水野尚
21世紀にネルヴァルをどのように読み直すのか。この問いに答える一つの試みとして、ネルヴァルの受容史を振り返ってみた。
生前のネルヴァルは、風変わりでありながら、ユーモアや皮肉を込めて同時代の社会を描く現実主義的な作家とみなされることも多かった。実際、時事的な出来事をテクストの中に取り込み、紋切り型の表現を故意に取り上げては、それを逆転させたりもした。また、自分の言葉だけではなく、他者の言葉もこっそり引用し、織物を構成する糸(主題)ではなく、編み方(アレンジ)の妙で、独特な手触りを持つテクストを織り上げる術を心得ていた。その意味で、意識的にコピー・ペーストを文学技法として用いた文士だったと言えるかもしれない。
ところが、1855年1月26日の朝、ネルヴァルのテクストを読むさいの、現実と非現実のバランスを一気に変化させる事件が起こる。あまり人が足を踏み入れることのないような場末にある安宿の窓に紐をかけ、彼は縊死する。その自死が大きなスキャンダルとなり、狂気、夢、幻想等の模様が、テクストのいたるところで読み取られるようになる。19世紀後半の象徴主義の時代には、イデアリスム的側面と同時に病理学的な側面も強調され、20世紀前半のシュルレアリスムの時代になると、夢と狂気がネルヴァルを読むキーワードとして揺るぎない地位を占める。彼の描くヴァロワ地方の風物を国家主義的な思想に利用することもあったが、基本的には、夢、狂気、幻想、神秘主義等を中心にした解読が、20世紀半ば以降も主流を占めてきたといっていいだろう。
20世紀後半に至り、作家・詩人としてのエクリチュールに焦点を当てる試みも行われるようになる。そして、コピー・ペーストが一般化した21世紀。今こそ、既存の言葉を巧みに織りなしたネルヴァルのテクストをより詳細に解明する機会に恵まれている等と言えば、悪い冗談でしかないのだろうか。
3.「祝福された朝」―プルーストの「シルヴィ」読解
湯澤英彦
プルーストが「シルヴィ」に関する断章を記したのは、『失われた時を求めて』へと結実してゆくプロセスの、そのごく初期段階のことであった。一人称回想体の小説部分に続き、母との会話においてサント=ブーヴ批判が展開されるという、二部構成の作品構想が生きていたときのことだ。前半の小説部分を後半の批評的な言説が正当化するという形であり、20世紀のはじめに、いかにして文学が可能なのかを問う姿勢がそこに明快に表れている。そうした文脈を意識しつつ、プルーストの「シルヴィ」断章を考えてみよう。
サント=ブーヴ批判の骨子が述べられている断章の冒頭には、過ぎ去った印象こそが芸術の唯一の素材であると明言されていて、それはあたかも死者の魂のように、物質的な事物に身を隠しながら、蘇生の時をまっているという。おおよそ19世紀後半の、ボードレール以降の地平における詩人たちの悪戦苦闘ぶり―それは「煉獄」における彷徨ともいえるだろう―を考えると、いかにも素朴な確信と映るが、プルーストの場合、この無防備さとひきかえであるかのように、生の輝かしさを肯定しようとする意志が強く打ち出されことになる。というのも、過ぎ去った印象を回復して、それを単に懐かしむ姿勢が問題なのではなくて、重要なのは、過去のある経験を純度の極めて高い生の一片として蘇らせることなのだ。そうした生の断片を、プルーストは別のサント=ブーヴ断章で「純粋に保存された純粋な生」と呼んでいる。
そして彼がネルヴァルの「シルヴィ」に感動し、そこに確かに読み取ったのは、やはり「純粋な生」なのではなかっただろうか。語り手の「私」がシルヴィとともに彼女の祖母の家を訪れる場面を例に挙げ、プルーストはそれを「祝福された朝」と呼ぶ。薔薇がただ薔薇色であるのを見ただけで、光をきらっと反射する緑色を木の幹に見ただけで、もう涙しそうになるような、そんな朝があるという。ささやかな美しさなのにすっかり酔い心地になり、夢の喜びで身も心も包んでくれる生の一瞬があるのだ。そのとき夢は現実の彼方にあるものではないし、生はまさしく現実の生でありながら、夢のように微笑んでくる。その瞬間の甘さや芳しさを、プルーストとともに素直に受けとめることが、ことによったらネルヴァルをいま読むことの最大の喜びなのかもしれない。
4.ネルヴァルとジュネ ―『東方紀行』の現代性
野崎歓
現代フランスの作家たちにとって、ネルヴァルは刺激的な存在であり続けているだろうか? ネルヴァルの影響下に書かれた作品が、すぐに思い浮かぶわけではない。とはいえ、優れた女性作家フロランス・ドゥレが『塩密輸人』の作者に捧げた、共感あふれるエッセイ『ネルヴァル譚』(Florence Delay, Dit Nerval, 1999)の如く、放浪や旅、そして異文化との接触といった主題においてネルヴァルの現代性を発見し直すケースにはなお、事欠かない。ジャン・ジュネの遺作『恋する虜』(Jean Genet, Le Captif amoureux, 1986)は、なかでも特筆すべき一例である。
ジュネはその特異な散文テクストの最後に、これは「わが数次にわたる東方紀行」を回想するルポルタージュであると記している。事実、そこに綴られたパレスチナ解放闘争随伴の記録は、ロマン派以来の「東方紀行」ジャンルの一つの到達点とみなし得る内容をもつ。ネルヴァルへの直接の言及はわずかとはいえ、『恋する虜』はネルヴァルの『東方紀行』(Gérard de Nerval, Voyage en Orient, 1851)との強い類縁性を示す作品なのである。
戦乱の傷痕をなまなましく示すレバノンを彷徨い、死と隣り合わせの日々をたくましく快活に生きる戦士たちの姿に魅されつつ、「前イスラム的」な異教信仰の深層に触れようとするジュネの姿勢は、レバノンの山中に分け入ったネルヴァルの探求を引き継ぎ、生き直すものと感じられる。とりわけ、ジュネの胸に刻まれ、長年にわたる固定観念と化す、若い戦士とその母のイメージは、ネルヴァルのいわゆる「原初のイシス」のイメージになぞらえるべき神話的喚起力を備えている。
逆に、こうした照応関係は、ネルヴァル作品の内にすでに息づいていた「ジュネ的」な部分へと、われわれの注意を喚起してくれるだろう。フランスおよび西洋社会に対する根底的な批判や反逆、「よそ者」としての分を守りつつ異文化とのあいだに築かれる友愛。『恋する虜』の魅力をなすそうした特徴は、そのままネルヴァル『東方紀行』の美質でもある。そこにこそ、ネルヴァル作品の今なおアクチュアルな魅力の根幹を見出すことができるのではないか?
ポストコロニアルとフランス語表現作家
立花英裕
パネリスト 立花英裕(早稲田大学、コーディネーター)、中村隆之(明治大学)、鵜戸聡(日本学術振興会特別研究員)、大辻 都(東京大学大学院博士課程)、工藤 晋(東京都立芸術高校)
このワークショップでは、4人のフランス語表現作家―フランツ・ファノン、カテブ・ヤシン、マリーズ・コンデ、エドゥアール・グリッサン―を、ポストコロニアルな視点から比較検討することを試みるものだった。ここでいうポストコロニアルとは、植民地支配終焉後の旧植民地の状況だけでなく、植民地支配時代をも含めた近・現代世界の統制構造と認識編成の現れとしての諸情況、あるいは、その告発としての文学・思想を指す形容詞として用いられている。できるだけ共通の座標軸をもつために、「移動」という視点を導入してみた。パリでのエメ・セゼールとサンゴールの出会い、あるいはジャマイカから米国に渡ったマーカス・ガーヴェイの例に代表されるように、ポストコロニアリズムは交通手段が発達した20世紀における移動を抜きに語れないからである。以下は、4人の発表者が共同でまとめた発表要旨である。
最初の中村報告「ファノン、あるいはアンティーユ人であることの問い」は、マルティニック島生まれの黒人精神科医にしてアルジェリア革命の闘士フランツ・ファノン(1925-1961)のアイデンティティをめぐる問いを手がかりに、彼の度重なる移動の経験を読み解くものだった。ファノンは、1946年に故郷を出た後、一度の帰郷をのぞけば、つねに異郷で生きた人物だった。この移動の経験をデペイズマン(日常からの脱出/異郷の居心地の悪さ)という語において捉える海老坂の指摘を導きに、中村報告は、ファノンのデペイズマンがアンティーユ人であることをめぐる解決しがたい難問と不可分であったのではないか、という論点を提出した。アンティーユ人であることの問いは、エメ・セゼール以降の知識人が抱えることになる難問である(なおクレオール性もこの問いの延長線上にある)。中村によれば、ファノンにおいてこの問いはネグリチュード批判とナシオンの創出という目的のうちで解決されるが、実際のところ、彼は流浪の経験をとおしてこの問いそのものを生きたのではないか。このことを考えるにあたり、中村は、グリッサンのデトゥール(迂回)という概念を援用する。デトゥールとは、アンティーユ人の一般心性のうちに存在するとされる奴隷制度以降の生き延びの戦略であり、目的に向かって直進するのではなく、回り道をすることである。この心性の次元において捉えるならば、ファノンの移動と脱出もまたある種のデトゥールであり、それをとおしてファノンは故郷にナシオンの観念をもたらし、政治的戦いを鼓舞したと考えられる。さらに言えば、彼の流浪それ自体が、アンティーユ人の複数性と混淆性、すなわち、アンティーユ人のアイデンティティが世界への開放としてしか存在しないということを示しているのではないかと指摘した。
鵜戸報告「カテブ・ヤシンとコスモロジーの軌跡」は、アルジェリアを代表するフランス語作家カテブ・ヤシン(1929-1989)をとりあげ、その作品群がアルジェリアを徹底的に問うことによって逆説的に世界文学的な広がりを獲得していることについて論じた。アルジェリアという閉ざされたトポスを書き続けるエクリチュールが、同時に世界にむかって開かれていく、そのパラドクシカルな機能を担保するのがカテブのフランス語である。カテブ・ヤシンはレアリスムの作法に則って現実のアルジェリアを写し取るのではなく、あるべき本来的なアルジェリアを、その起源から未来へと繋がる潜在的な姿のうちに描き出そうとする。それはことばによって自律したひとつの世界像を構築することであり、いわばコスモロジーとしての「アルジェリア」の創造と言える。しかもそれは一つの作品のみで作られるのではなく、カテブの書き続けたあらゆるテクストがそのマテリアルとなっているのであって、彼のアルジェリアを書き続けるというテクスト産出のダイナミズムが一つのコスモロジーの記述、すなわちコスモグラフィーとして機能しているのである。カテブ自身も円環状のフラグメント構造を持つ小説『ネジュマ』について「一冊の本を通してアルジェリアを産み落とそうとしたのだ」と述べ、さらにこのアルジェリアというものを「死につつある世界のなかで生まれつつある世界」と呼んでいる。この過去から現在に連なり未来へと投げかけられていくアルジェリアというナシオンは、その歴史性のなかに無限の多様性を孕みながら、カテブのコスモグラフィーの運動の中、あるいは読者の終わらざるレクチュールの中で、不断の運動を続けて行く。動き続けるエクリチュールの織りなすナシオンとしてのアルジェリアは、常に未完成でありつつ、未来に向かって作りつづけられるべきものなのである。
大辻報告では、「マリーズ・コンデ、アフリカ・アメリカ・アンティーユの往還」と題し、移動抜きでは成り立たないマリーズ・コンデの作家としての軌跡を考察する。
カリブ海の奴隷の末裔でありながら、フランスへの「同化」が進んだブルジョワ家庭出身であるコンデがアンティーユ人の分裂したアイデンティティを意識したのは、エメ・セゼールの長編詩『帰郷ノート』とそこに表れるネグリチュードの思想を通してであった。この読書体験をきっかけに、コンデは自らの起源をもとめて現実のアフリカ大陸へと旅立つ。だが彼女がそこで目の当たりにするのは独立直後の政権による独裁や文化的齟齬であり、10余年におよぶアフリカ体験は挫折感とともに終えられる。
この体験をもとにコンデは70年代半ばに作家としてスタートするが、同じ時期、学生向けとして『帰郷ノート』概説を書いており、そこにはコンデによる、セゼールと、もうひとりのアンティーユ人思想家フランツ・ファノンとの比較考察、すなわち「人種」と「文化」の対比が見てとれる。コンデ自身の意識としては、アフリカ出発前のセゼールへの共感は、帰国後ファノンへの接近へと変化したようにも見える。
だが、アフリカからアンティーユへ帰還した後のコンデがセゼールに否定的だったかと問えばそうとはいえず、少なくとも他のアンティーユ作家のようにはっきりセゼールを批判し、クレオール語擁護に向かうことはない。80年代以降、コンデが多くの時間を過ごすアメリカ合衆国はアンティーユと奴隷制の歴史を共有しており、この場所を自らのアイデンティティの延長として創作の舞台に選びながら、アメリカ黒人文化にまつわる事象を頻出させるコンデは、こうした知識全体を自ら共有すべきディアスポラ・リテラシーと呼んでいる。だが遡ってみれば、このディアスポラ・リテラシーとは、コンデが否定的に捉えるアフリカ体験の中での文化的交流において培われたものだと考えられるのである。
最後の工藤報告は、エドゥアール・グリッサン(1928‐)の一連のマルティニク小説における「迂回」の諸相を分析した。マルティニックの「風景」「歴史」「ランガージュ」に刷りこまれたさまざまな「迂回」は、黒人たちが生き延びるための方策であった。グリッサンは自らのエクリチュールに、コロニアリズムの視線を逃れ、黒人にとっての土地の意味、島の固有性を探索する戦略としてその「迂回」を織り込む。
島を見つめるグリッサンの視線は、椰子の木の揺れる浜辺やプランテーションのサトウキビ畑といった植民地「風景」の外部へと迂回し、かつての逃亡奴隷の住処であったモルヌ(山間部)や黒人たちにとって意味のある植生に向かう。逃亡奴隷の末裔パパ・ロングエと奴隷の末裔マチューという二人の主要な登場人物は、植民地開拓年譜から迂回し、無名の黒人たちの「歴史」語りを試みる。また、主人の言語であるフランス語の抑圧を迂回するクレオール語のコントに、黒人の主体化を担う「ランガージュ」をみる。ただしそれらの「迂回」は、逃亡奴隷のトポスを通じてアフリカの痕跡をとどめる始原的聖地の開示へは向かわない。山深きレザルド川の源泉には白人入植者の館があり、過去への遡行によって明らかになるのは白人との抜き差しならぬ経緯であり、ランガージュは常にフランス語というラングとの緊張関係のなかでとらえられる。
こうした「迂回」の戦略が辿りつくのは、島の固有性とは外部との「関係」であるという認識である。グリッサンは、島の黒人が被ったさまざまな抑圧を描きつつ、その現実を世界の動きのなかでとらえようとする。その詩学はナシオンの立ち上げではなく、さまざまな場所を等価なものとして連接させる「全‐世界」という想像界を開く方向に向かっていくのである。
(司会からの言葉) 今回のワークショップは、全体的な枠組みの中で各作家の共通項だけでなく相違点までも折り込んだ連関性を十分に引き出すところまでには至らなかった。各発表者の立場を尊重した事情もある。しかし、各人の個別研究を総合的な視点から捉えなおそうとする試みは相互啓発的だった。
司会の立場から再認識したことは、ポストコロニアリズムが、総じてディグロシー二言語使用状況において旧宗主国の言語を選択した活動であり、その異種混淆的性格に共通性を求めることができるにしても、固定的な価値を説く言説に収斂したり、特定の政治・経済思想を優先させたりするものではないことである。むしろ、「ニグロは存在しない」というファノンの吐露に見られるように、自己の立場をも含めてすべてを関係性の坩堝に投げ込むことによって、支配的言説と表象体系の恣意性、自己中心主義を告発し、政治経済機構の根源的暴力性を可視化するものである。ポストコロニアルな作家・思想家は、伝統文化を称揚し、ナシオンの創設を希求することもあるが、彼らの表現言語がトランスナショナルな回路をもっていることからしても、言語的・民族的均質性に収束しえない移動の関係性を抱えている。それは、ナショナルな枠組みを超えた文学研究の地平へとわれわれを導くものでもある。
フランス文学とベルギー
パネリスト 岩本和子(神戸大学)、吉村和明(上智大学)、田母神顯二郎(明治大学)、海老根龍介(コーディネーター、白百合女子大学)
我が国においてベルギーのフランス語文学がいわゆる「フランス文学」と明確に区別されることは稀である。しかし19世紀にオランダの圧政から独立する形で成立したベルギー固有の文脈を考えるとき、私たちが無意識のうちに「フランス文学」の中に位置づけていた出来事や作品は、にわかに不安定な相貌のもとに浮かび上がってくる。フランス語とオランダ語、ラテン文化とゲルマン文化の葛藤が燻り続けているこの国で、「フランス語で書く」作家たちは、ベルギーというトポスを、大国「フランス」に対する位置取りの中で捉えてきたといえる。
一方で、ベルギーのフランス語文学は、近年注目を集めているポストコロニアルな「フランス語圏文学」では、むろんあり得ない。イギリスの作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』が鋭く描き出したように、コンゴ地域に対するベルギーは、他のヨーロッパ諸国と同様に侵略者であり、植民地主義時代のベルギーのフランス語文学は、帝国主義意識の内面化の記録という側面を顕著に持つ。
本ワークショップでは、三名のパネリストが、フランス語で文学を生産しながら、「フランス」の外部にあり、しかもまぎれもなく「ヨーロッパ」の一部であり続けるベルギーというトポスを、多様な角度から視界に浮上させた。以下はそれぞれの報告の概要である。(コーディネーター・海老根龍介)
1
岩本和子
現在のベルギー王国は、オランダ語・フランス語・ドイツ語を公用語とし、地域別一言語主義(ブリュッセル首都圏のみ蘭仏二言語併用)をとる連邦国家である。〈フランス文学とベルギー〉がテーマであれば、ベルギーのフランス語文学を対象とすることになるが、では南半分のワロニー地域とブリュッセルを覆うフランス語共同体のみに関わるかと言うと、そうではない。いわゆる「ベルギー文学」が存在するのか、その特質やアイデンティティが何なのかを探ろうとする時、1830年の独立以来の状況の変化も視野に入れねばならない。当初はフランス語が実質的な公用語であり、19世紀末からの北部民衆のフランデレン語(オランダ語に馴化)使用者による言語・地域・民族運動の進化とともにオランダ語文学との確執も出てくる。「ベルギー文学」という問いの答えは未だないというのが結論ではあるが、ただそれが常に隣の「フランス文学」との距離で測られてきたのも確かである。
そこで、「ベルギー文学」の見取り図として、フランス文学とのスタンスの変化により4つの時代に大まかに分けて概観しておくことにする。
1)1830-1880 国全体で上層階級・知識人が使用するフランス語が、文学言語であった。隣国フランスの海賊版出版や亜流作品だけで、「ベルギー文学」はなかったと言われる。ただ独自の芸術文化が国力強化に役立つという意識は強く、ナショナリズムの高揚と一体化して民衆伝承再録や歴史小説の試みはあり、例外的にアンリ・コンシャンス(ただしオランダ語)やド・コステル(ただし世紀末に評価)などが国民的作家として現在にまで残る。
2)1880-1920 ベルギー文芸ルネサンス期とも呼ばれ、ベルギー象徴派が活躍し他国へも優れた理論や作品を発信する。フランスに対する独自性を追求し、ゲルマン性、北方精神を意識する。ヴェラーレン、メーテルランク、ローデンバックらがいる。
3)1920-1950 フランデレン運動が激しくなりオランダ語文学も台頭する。フランス語作家は専らパリでの活動に積極的で、フランスと一体化する。シュルレアリストなどの活動がこの時代に当たる。
4)1950- 「ベルギー」という枠組みが揺れ、フランデレン側を意識しながらフランスに対しても独自性を求めつつ共存を探る。
1)2)を向心性段階、3)を遠心性段階、そして4)を弁証法的段階とする見方もある。言語の違いを民族性の違いと錯覚すること、パリとの差異化とパリによる認知の必要性のジレンマなどの問題を抱えつつ、現在ではナショナリズムにも地域主義にもこだわらない「ヨーロッパ人」として、単に「フランス語で書く作家」として活躍する作家もいる。トゥーサンやノートンなど、またオランダ語作家としてはヒューホ・クラウスを挙げておく。
2
吉村和明
ナミュール生まれの画家フェリシアン・ロップスは、1860年代にブリュッセルでプーレ=マラシやボードレールといったフランスからの亡命者たちの知遇を得る。この決定的経験によってみずからの芸術上の方向性を見定めた彼は、1870年代なかばからパリに拠点を移して活動を続ける。たとえば《アブサントを飲む女》(1876)といった作品に描かれるロップスのパリには、それぞれの個性の違いを別にして、同世代のマネやドガと相同的な〈現実的なもの〉へのアプローチが見いだされる。
このロップスの作品にいち早く興味を示したのが、ユイスマンスだった。彼はそのことを、ベルギーの詩人・編集者テオドール・アノンに手紙で書き送る。アノンはユイスマンスの自然主義に共感し、以後数年間にわたっていわばその特権的な共犯者となるだろう。彼は1877年初めから雑誌L’Artisteの編集長を務めるが、当初から「自然主義」に好意的だったこの雑誌は、アノンが編集長になってから、「モデルニテ」の美学と結んでその主張をいっそう強く前面に押し出すようになった。そして吹き出しに雑誌のモットーであるnaturalisme, modernitéという言葉が書きこまれた扉絵を制作したのは、ロップスにほかならなかった。
ロップスは1878年、アノン宛の手紙のなかで、彼自身によるモデルニテの理念を展開している。この理念に共感したユイスマンスは、「1879年のサロン」にこれをほぼそのまま引用する。こうして『ヴァタール姉妹』(1879)から『現代芸術』(1883)まで、「モデルニテ」は、「自然主義」とともに、この時期のユイスマンスを貫く創造と批評の根本原理である。
いっぽうアノンへの「ノート」を書いた同じ1878年に、ロップスは彼のもっとも重要な作品である《聖アントニウスの誘惑》、《ポルノクラテス》を制作する。狭い意味での自然主義からは逸脱するが、とりわけその(半)裸体はまごうことなき現代のそれであり、アレゴリー的表象という側面をもちながら、リアルであることに変わりはない。
そしてアノン自身についていえば、彼の雑誌の掲げる「自然主義、モデルニテ」は、彼の代表的な詩集Rimes de joie(1881)の出版によって具体的なかたちを与えられることになった。ユイスマンスが序文を書き、扉絵と挿絵をロップスが制作することによって、三人のコラボレーションが実現したのである。
けれどもこのコラボレーションは波乱含みで、結局三人の方向性の違いを浮き彫りにせずにはいなかった。それぞれの道をたどっていくこれら三人のその後の軌跡は、また別の物語というべきかもしれない。
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田母神顯二郎
フランス文学とベルギーという問題を考える上で、アンリ・ミショーの存在は興味深い例を提示する。彼は帰属を拒絶した作家であり、その作品も、一種の無国籍文学ないし反・ユートピア文学として扱われてきた。それゆえ故国喪失者というイメージも定着しているが、死後発掘された資料からは、違った面が見え始めている。ところで岩本和子氏は、『周縁の文学』の中で、ベルギー文学の特徴を「周縁性」に見出している。それはフランスに対する「周縁」を意味するだけでなく、<中心そのものの拒絶>をも含意する。氏は、19世紀後半からベルギー象徴派にいたるまでの代表的作家のうちにこうした特性を見ようとしているが、それこそはミショーにも共通する傾向である。実際、初期の著作『夢と脚』(1923)では、中心主義や普遍思想を根底から覆そうとする意図を秘めた「断片人間」morceaux d’hommeという存在が登場する。ここで「断片」とは、不完全ではあるが独自の生命と特性をもつ一つの全体であり、ミショーはそうした断片的部位(=地方)の緩やかな連合体として身体・精神・人格を描いている。このヴィジョンは、『グランド・ガラバーニュへの旅』などの作品で更なる発展を遂げるが、彼のベルギー観の中にも窺えるものである。『夢と脚』では、こうした「断片人間」が、統合的・鏡像的身体を持つ「全体人間」に対立させられているが、穿った見方をすれば、ミショーはそこにベルギー性とフランス性の対立をも見ていたのかもしれない。
ミショーはまた、「ベルギーからの手紙」(1925)という初期のテクストで、ベルギー文学の特徴を単純さsimplicitéと鋭敏な身体感覚のうちに見ている。ここで単純さとは、言葉の虚飾を嫌い、言葉が人を傷つけまた本質から遠ざけさえするものであることに意識的であることを意味する。彼はここにベルギー作家の可能性を見出し、幾人かの作家を「単純さの巨匠」と呼んでもいる。この傾向は、思春期におけるフランドルの神秘思想家との出会いに端を発し、その後東洋思想の影響も受けながら、彼独自の発展を見せるものと考えられる。一方ミショーは、現代にあって、ベルギー芸術の今一つの特質である「身体性」への鋭敏な感覚が、そのままでは生き延びる余地がないことを告げてもいる。「脳化」がいっそう進行する「冷たい血」sang-froidの時代では、ベルギー人の特質である「熱い血」sang-chaudは抑圧される運命にあるのである。だが1930年代以降のミショー作品で主役となっていくのは、去勢され、実質を失った、この上なく冷たい身体である。「断片人間」たちは、ひとたび殺戮されたあと、いかなるアイデンティティも持たないシミュラークル的存在として、作品の主要モチーフになっていくのである。こうした点から見ても、ミショーとベルギーの関係は、相当に深く、錯綜したものであることが予想される。