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2008年2月28日 16時14分 [WEB担当]

村田京子『娼婦の肖像 ロマン主義的クルチザンヌの系譜』

書評
 

娼婦の肖像―ロマン主義的クルチザンヌの系譜

作者: 村田京子
出版社/メーカー: 新評論
発売日: 2006/12
メディア: 単行本
クリック: 32回


村田京子『娼婦の肖像 ロマン主義的クルチザンヌの系譜』
評者:松本伊瑳子(名古屋大学

 ジェンダーとは何か? それは「文化的・社会的に作られた性」と説明されるが、換言すれば、ある一時期、ある社会において、特に女性の生き方・あり方に対する規範があり、様々なエクリチュールによって強化・伝搬され、それを男女が内面化していくということである。エレーヌ・シクスーは「メデューサの笑い」において、エクリチュールは主に男性によって支配されていたがゆえに男性の刻印が押されていて、女性に対して抑圧的に管理され、“フィクションのまやかしの魅力で飾り立てるといった恐るべき手ごわいやり方で、再生産されてきた”と述べている。

 このように男性の視点で描かれ、受容され、批評されてきたものの、そのことに気づきさえしないことが多かった文学作品の娼婦たちを、男性的解釈とは異なる女性の視点から村田氏は読み直そうとする。娼婦には二種類あり、「プロスティテュエ」は金目当ての下級娼婦のことである。もう一つは「クルチザンヌ」である。後者はもともと良家の出で教育や礼儀作法を身につけ、美貌と知性を兼ね備え、国王の愛妾にもなれば、自宅に政界の有力者や芸術家などを集めて社交の中心ともなった女性を表していた。従って、ロマン主義作家が一種憧憬の念をこめて描く娼婦“ロマン主義的クルチザンヌ”は “作家のファンタスムが色濃く反映された娼婦像”であり、“それぞれの作家が作り上げ、文学的次元にまで昇華した詩的な娼婦”であって、男性作家の女性観の分析に適しているとして、村田氏はこれらの娼婦たちを分析対象としたのである。

 この本はIII部構成で、第I部では、18世紀半ばに書かれロマン主義的クルチザンヌの原点ともいうべき『マノン・レスコー』や、『椿姫』、サンドの『イジドラ』という、愛の「殉教者」であり、男性優位社会の犠牲者である「恋するクルチザンヌ」を、第II部ではバルザックの描く“男の精力を枯らし、知性を奪い、人格をも破壊し、死に至らしめることもある悪魔的”で、“しかも自分の悪徳を自覚し恥じることもない”「危険なクルチザンヌ」たちを扱っている。第III部「近代小説と公娼制度」は、空想的社会主義の影響下に書かれたシューやユゴーの「社会小説」に現れるクルチザンヌたちの分析である。

 男女の視点の違いがとりわけ浮き彫りになるのは第I部である。『マノン・レスコー』はデ・グリューという男性主人公の視点によって描かれ、読まれ、批評されてきた作品であり、不実を重ねてきたマノンがデ・グリューの愛の深さに触れ、改心するとされている物語である。村田氏は言う。マノンにとって「肉体」と「心」は別物であり、大事なのは「心の操」であって、「肉体の操」ではない。しかし心と肉体の操を求めるデ・グリューにとってマノンは「不実なあばずれ女」となる。“両者の価値観のずれは、矛盾に満ちたマノン像を作り出”し、一方で彼女は「軽はずみで向こう見ず」、「移り気、金に不自由することが恐ろしくて、片時も平静でいられない女」であり、他方で「まっとうで誠実」「金銭に対して淡白」という正反対の性質を兼ね備えた「常識的な尺度では測ることのできない」女となる。しかしこの両義性・多面性こそが解きがたい女性の「謎」となって、多くの男性作家・批評家を不安に陥れると同時に魅了し、「謎の探求」に駆り立てていたと村田氏は喝破する。デ・グリューが投げかけた非難の言葉(軽はずみ、気まぐれ、恩知らず)をマノンが自らの言葉として内面化し改悛の情を見せたとたん、彼女は“自分の才覚で「幸福を整えよう」とはせずに、ただ怯え泣くだけ”の存在と化してしまう。このことを女性の側から言えば、理想の女という枠組みにはめ込まれる女性にとっての死であり、男性の側から言えば、“デ・グリューの苦難の道の終着点”となるのである。

 同じ「恋するクルチザンヌ」でも、ジョルジュ・サンドのような女性が描けばおのずとそれは男性が描く娼婦の物語とは異なってくる。「罪の女を許し、清める」役を買って出る男の内には、神に変わって他者の魂を救おうとする男の傲慢さが見出され、そのために娼婦の魂を救うのは男の愛情ではなく同性であり、サンドにとって「恋するクルチザンヌ」のテーマは、“「無垢な女」が「罪の女」を救う「女の物語」に変容”するのである。

 資本主義の確立という時代背景と男性作家の女性観との関連性も視野に入れながら、ジェンダー規範が18世紀半ばから19世紀半ばに至る約100年の間に、どのように変化し男女に内面化されていくか、空想的社会主義思想の台頭と共に男性の女性観が変化するにもかかわらず時代的制約を伴ったものでしかないかがよく分析されている。同時に、ジェンダー研究とは男女の認識の差についての学であるということがよく分かる好著である。また本書では、分析作品の挿絵の説明や、粗筋、登場人物などのコラムが充実し、作品を読んだことのない読者にも分かりよい親切な構成になっている。