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2008年9月3日 11時36分 [WEB担当]

ダニエル・ アラス『モナリザの秘密』吉田典子訳

書評
 

モナリザの秘密―絵画をめぐる25章


作者: ダニエルアラス,Daniel Arasse,吉田典子 
出版社/メーカー: 白水社 
発売日: 2007/03 
メディア: 単行本 
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評者:宮下志朗(東京大学

 2003年の暮れ、パリのリュクサンブール美術館で、《ボッティチェッリ ─ ロレンツォ豪華王からサヴォナローラまで》と題された展覧会が開催された。わたしは、しばし雑事を逃れるべく、日本から見に出かけたのだけれど、その会場で、企画を担当したアラスの死を知った。享年59歳、いささか早すぎる死であった。本書は、この美術史家が、2003年夏にラジオ《フランス・キュルチュール》で、25回にわたっておこなった『絵画の話』Histoires de peinturesを、活字に起こしたもの。原書にはCDが付いているから、アラスの生の声を聴ける。

 難病に冒されていた彼は、死が近いのを予感していたらしく、このラジオ番組を「一種の自画像」(アラス夫人カトリーヌ・ベダールの表現)としてイメージしていたようだ。したがって、第1章「好きな絵」から始まって、第25章「人は自分の時代の歴史家になれるか?」まで読み進めることで、読者は、アラスの知的・学的遍歴を、いくぶんかは追体験できることにもなる。たとえば、11章「盗まれた博士論文」では、せっかく博士論文執筆用に書きためたカードをすべて、フィレンツェで車のトランクから盗まれたことが語られる。この盗難事件をきっかけに、彼は指導教官を泰斗アンドレ・シャステルからルイ・マランに変更し、論文のテーマも「記憶の芸術と修辞の芸術」に路線変更したのだ。このエピソードを枕として、話は次章「記憶術から修辞学」へとつながっていく。アラスにとって、中世からルネサンスへの移行とは、「記憶術」から「修辞学」への変化にほかならない。

 アラスは図像学者ではない。「図像学」はタブローの部分を明らかにするだけで、全体の解釈には到達しえないというのが、彼の考えだ。マランの弟子といっても、記号論者でもないし、ユベール・ダミッシュを尊敬していても、視覚・表象文化論者ともいえない気がする。アラスは、あくまでもアラスだ。彼は、とにかく作品を長い時間見つめる。そして、たとえ「逸脱」していても、全体の意味を集約あるいは「圧縮」しているかに思われる、「細部(ディテール)」に標的を定める。たとえば、第8章「画家の秘密」では、15世紀フェラーラの個性派フランチェスコ・デル・コッサの《受胎告知》(ドレスデン、国立絵画館)の縁を這う、カタツムリという「細部」が絵の全体を規定する。拙訳『なにも見ていない』で、詳しく語ってくれた謎解きが、ここでも披露される。あるいは第20章「絵画の細部」では、アントネッロ・ダ・メッシーナの《聖セバスティアヌス》(ドレスデン、国立絵画館)で、聖人の臍が眼として描かれていることや、アングルの《モワテシエ夫人》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)の美しいドレスに、「欲望のしるし」として、汚いしみが描かれていることに注意が喚起される。むろん、「眼としての臍」も、「欲望の誠実さ」としてのしみも、主著『細部(ディテール)─近接絵画史のために』(1992)において取り上げられた主題にほかならない。死の前年のラジオ番組では、アラスのエッセンスが語られていたのだ。

それにしても、その語り口のなんと魅力的なことか。シエナの画家アンブロージョ・ロレンツェッティの《受胎告知》(シエナ、国立絵画館)における大天使ガブリエルの右手のしぐさは、ヒッチハイカーのそれに見立てられる。「その頃ヒッチハイクというのはありませんでした。したがって、これは『無料の輸送という問題』とは異なりますが、でもやっぱり『無料の輸送の問題』なのでありまして、神の身体を無料で運ぶのは聖母マリアなのですから」といった個所の、楽しさは比類なきものだ。こうしてアラスは、読者/聞き手を「受胎告知」という主題に引っぱり込み、見えない秘跡の表象と、遠近法の関わりといった問題に迫っていく。なお「受胎告知」は、イタリア・ルネサンス美術を専門とするアラスの偏愛の主題である。『ルネサンスから今日までの受胎告知』と題されたCD-ROM(1997)が、多数の図像にとどまらず、受胎告知をめぐるテクストが集成された画期的な企画であったことを思い出す。

 「ですます」調の訳文は、とても読みやすい。「アナクロニスム」「修復」といった、文学研究と類比的に考えることも許されそうな、方法論やプロセスも取り上げられているので、ぜひ一読していただきたい。

 なお、最後に、ルネサンスあたりを専門とする、最近のフランスの美術史家で、邦訳のある面々を挙げてみよう。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(『フラ・アンジェリコ』『ヴィーナスを開く』『残存するイメージ』など)、ダニエル・アラス、ジャン=フィリップ・アントワーヌ(ウッチェッロが主人公の『小鳥の肉体』)といったところだろうか。これに、スイスはフリブール大学のヴィクトル・ストイキツァ(出身はルーマニア、『絵画の自意識』など)を加えれば、いかに個性派ぞろいか、よくわかるではないか。