Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

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2008年9月7日 12時29分 [WEB担当]

2008年度春季大会ワークショップ2

WS

翻訳の社会学

パネリスト 加藤晴久(東京大学名誉教授、コーディネーター)、折原浩(東京大学名誉教授)、宮田昇(元海外著作権エージェント)

 まずコーディネーターの加藤が本ワークショップ開催の趣旨を説明した。次いで、折原浩氏、宮田昇氏の発表が行われた。参加者約80人であった。学会員のほか、出版関係者の参加もかなりあった。

 マックス・ヴェーバーの緻密な研究者として名高い社会学者・折原氏、著作権問題の世界で指導的な役割を果たしてこられた宮田氏をパネリストとしてお願いしたのは学際性、社会への開放性を模索するひとつの試みであった。

 以下、各発言者本人が執筆した要旨である。(加藤)

[I]翻訳学確立のために
加藤晴久

 自然言語の多様性は、古来、人間にとって謎であり、また克服すべき障害であった。それは「バベルの塔」(「創世記」11-1)や「聖霊が降る」(「使徒言行録」2-1~4)[イエスが約束した聖霊の訪れは12使徒がそれぞれ別の言語を話し出す«言語の爆発»として具現した。⇔イエス信仰の世界性]の神話からも明らかである。また、キリスト教や仏教の聖典の翻訳の歴史は翻訳の問題の文明史的重要性を示している。Douglas Robinson, Western translation theory の副題が from Herodotus to Nietsche となっているのも示唆的である。ニーチェ以降も多くの哲学者、言語学者、文学者が翻訳を論じている。

 日本においては一般に翻訳問題=誤訳問題と考えられている。外国語の書物と外国語が読めない読者とのあいだの橋渡しをするのが翻訳者の役割であるから、翻訳は原文に「忠実」でなければならない。だから誤訳問題はそれとして重要かつ重大な問題である。当然のことながら翻訳者には高度な言語能力ときびしい倫理感覚が要求される。この点で、軽薄、破廉恥、無能力な翻訳屋が少なくないことはまさに問題である。他方、Stendhal, le Rouge et le Noir や Saint-Exupéry, Le Petit Prince の翻訳をめぐる最近のスキャンダルは、翻訳者だけでなく、出版社、編集者の職業倫理の問題を切実に提起している。この問題に関する出版社、編集者の対応にはあまりにも低劣で、黙視するに耐えないものがある。学会としての何らの行動が必要である。学会執行部の姿勢が問われている。

 だが、翻訳の問題は誤訳問題に限られない。奥行きが深く、幅の広い総合的な学問領域を形成している。翻訳学の領域として考えられる問題群を仮説的に図示するとすれば、

[A] 共時的次元

(1) 翻訳の言語学(原書⇔訳書)、

(2) 翻訳の社会学

([a] 出版社⇔編集者⇔翻訳者、[b] 出版社⇔著作権エージェント⇔外国出版社、[c] 大学+学会、[d] 翻訳対象、[e] 翻訳者)

[B] 通時的次元

(1) 翻訳理論史

(2) 翻訳の歴史(ex.聖書、仏経典、ギリシア語文献、シェークスピア、etc.)

と大雑把に括ることができるかもしれない。

 欧米諸大学でtranslation studies / science de traduction (traductologie) / Übersetzungswissenschaft が発展しつつある。グローバル化の時代背景もあって有能な通訳・翻訳者の社会的需要が高まっている。日本の大学の外国語・外国文学関係の学部学科・大学院にとって、生き残りのかかったひとつの可能性を示していると思われる。

 翻訳学の確立と発展を願っている。

[II]誤訳をどう改めていくか ― 一社会学者としての経験から
折原浩

 わたくしは、大学教養課程で、長らく社会学の入門講義を担当し、学生に古典を(翻訳でも全篇を)読むように勧めてきましたので、しばしば誤訳問題に直面しました。社会科学の古典のばあい、ある文献には (初訳者が苦労した) 良い邦訳があり、未訳の重要文献は数多く残されているのに、別人が第二次、第三次、……訳を出し、そのさい誤訳が改められない、という現象が目立ちます。しかも、いったん誤訳を含む翻訳が出版されますと、その旨を指摘しても、なかなか訂正されません。その理由として、訳者には、(1)翻訳を自説の発表に比して軽んずる傾向 (とくに科学のばあい)、(2) 訳者としての学問的また社会的責任感の稀薄さ、(3)誤りを率直に認めて改め合う「知的誠実」慣行の欠落、出版社には、(4)訳文の是正 (とくに字数の異なる象嵌による大幅な紙面刷新) を嫌う傾向、読者には、(5)翻訳については「欠陥商品」の「製造物責任」を厳しくは問わない寛容、などが考えられます。

 かくいうわたくしも、数種の邦訳のあるマックス・ヴェーバー著「社会科学と社会政策における認識の『客観性』」を改訂(補訳、解説)しています。ただそのさい、つぎのことは試みました。(1)初訳者名を保存し、初訳者の解説を巻頭に掲げる。(2)本文の理解に役立つ付録三篇を加える。(3)本文の訳文には段落ごとに番号を付し、それぞれに表明された原著者の思想内容について、詳細に解説する。そのさい、(4)既訳中に誤訳が認められるばあい、注に「原文(独文)-既訳(英訳、仏訳を含む)対照表」を収録して、改訳の根拠を示し、先訳者の応答を呼びかける。(5)増刷のさい、巻末に「第○刷へのあとがき」を付し、その間に寄せられた批判と釈明ないし反批判を記載する。この(5)は、訳者が自分のHPに掲載することもできましょうし、学会のHPに「誤訳問題コーナー」を開設し、会員から申請があって重要と認定したばあい、審査委員会を設けて審査し、その結果を公表して、関連分野における翻訳の水準維持に配慮し、高度に責任を担っていく、という方途も考えられましょう。香り高い仏文の邦訳に識見をお持ちのフランス語・フランス文学会こそ、日本で真っ先にその種の試行に乗り出していただけるのではないか、と期待するのですが。

[III]占領下のフランス文学の翻訳
宮田昇

 敗戦後63年になる。連合国軍(米軍)による統治は、あしかけ8年という短いものだったが、その後の日本の政治、経済から文化にいたるまで、あらゆる面で未だに大きな影響を与えている。

 占領下の厳しい検閲で、完全な言論出版の自由がなかったことは指摘されているが、海外文化についても統制がなされたことはほとんど知られていない。その原点は、昭和21年12月5日に各連合国に示された連合国軍最高司令部(GHQ)の回状第12号である。それは連合国の映画、新聞、雑誌、書籍、音楽などの日本での上映、発行、演奏全般に、GHQの許可の必要を知らせたものである。

 その上でGHQは、日本人の海外送金の停止と海外権利者との直接交渉を禁じ、さらに4回にわたる著作権侵害を理由とする発行禁止を求める覚書を出して、著作者の死後50年を経ない一切の著作の翻訳出版を禁じた(50年フィクション)。当時日本はベルヌ条約ローマ改正条約(1928)に加入し、著者の死後30年までの保護、翻訳は公表後10年以内に出版しなければ権利消滅としていたが、それを無視した超法規であった。

 これらの中にはベルヌ条約に加入していないソビエト(ロシア)の著作物、チェーホフまで含められていたが、著作権侵害とされた136点の図書のうち、90点近くがフランスの著作物であったことは、単に冷戦下のイデオロギー的排除とは違う意味を持っていることを示すものであろう。

 また、GHQは回状第12号に基づいた入札を行い、それにリストアップされた著作物の翻訳出版のみ、当初は許可した。その主なものはアメリカの著作物である。ソビエトの著作物は1、2点をのぞいてリストに載ることはなかった。

 それらの文化統制の一端を述べると、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』の場合は、戦前の昭和13年、白水社が適法に契約して翻訳出版していた。海外送金が不可能になった戦中、戦後は旧著作権法第27条による供託を続け、かつ連合国軍フランス代表部の了解は得ていたにもかかわらず、無断翻訳著作権侵害の書籍として発行を一時停止させられた。

 フランスの著作物では珍しく入札に付されたアルベール・カミュ『ペスト』の場合は、35.6%という占領下の超高率の印税で落札されたことで知られているが、もともとこれもフランス代表部を通じて適正な契約がなされる寸前、強引に入札に回されたものであった。

 このほか平和条約でベルヌ条約加盟(アメリカは非加盟)の連合国の著作物の翻訳権に戦時期間を加算させるなどしたが、それらの統制がその後の日本の文化状況を戦前のと様変わりさせ、英語ものの翻訳に一極化させたかは、議論が分かれるところであろう。

 しかし、かって日本ではロシアについで翻訳が多かったフランス文学の翻訳は、『ル・モンド』(2007年11月23日号)によると、2006年には僅か41件、韓国の124件を下回り、中国の57件より少ないという。フランス文学の質の是非はさておき、多様な異文化を知る手段である翻訳の憂うべき現状といえると思う。