Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

cahier

その他の研究レビュー

2015-09-24 [sjllf]
2013-05-04 [sjllf]
2012-05-23 [sjllf]

書評コーナー

2017年10月26日 13時52分 [sjllf]

書評(足立和彦『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』)

足立和彦『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』(水声社、2017年)の書評(自著紹介)が届きました。こちらからご覧ください。

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2009年3月20日 16時05分 [WEB担当]

2008年度秋季大会 ワークショップ4

WS

Pourquoi enseigner le cinéma?

パネリスト Olivier Ammour Mayeur(立教大学、コーディネーター)、François Bizet(青山学院大学)、森田秀二(山梨大学)、小川美登里(筑波大学

 Le projet qui a rassemblé les quatre intervenants était une volonté commune de mettre en évidence que le cinéma n’est pas seulement un support dans un cours de langue, mais qu’il permet toujours d’entrer de plain-pied dans la culture et dans la littérature. Qu’il s’agisse de montrer les liens entre littérature et adaptations cinématographiques, ou encore les liens théoriques qui existent entre les pratiques narratives que mettent en place la littérature et le cinéma, dont beaucoup de notions critiques sont communes, chaque croisement entre ces deux disciplines indique des points convergents qu’il faut exploiter au maximum afin de montrer aux étudiants que savoir lire l’un (le cinéma) c’est savoir lire l’autre (la littérature). En d’autres termes, l’un des enjeux de ces interactions, c’est de rappeler que les notions qui nous permettent de comprendre un texte sont les mêmes qui nous permettent d’entrer dans une image, et plus particulièrement dans des images mobiles qui racontent des histoires.

 Comment faire pour aider nos étudiants à entrer dans un univers que les médias essaient de leur présenter comme un simple divertissement ? Comment amener les étudiants à une réflexion construite sur les images cinématographiques qui puisse, par la suite, les aider à se former un esprit critique sur les images qu’on leur propose ? Ce sont ces pistes que les panélistes ont voulu explorer pendant l’atelier.

 D’abord, Morita Shuji, à partir d’une trajectoire historique comparée de l’enseignement du cinéma au Japon et en France, a expliqué pourquoi et comment il utilise Les Parapluies de Cherbourg de Jacques Demy dans ses classes de langue. Pour M. Morita « Les Parapluies de Cherbourg est un matériel didactique idéal et irremplaçable, avec son récit à la fois simple et original, son français standard parfois vieillot (ce qui ajoute d’ailleurs un certain charme) et surtout son rythme relativement régulier appuyé par la musique de Michel Legrand […] ».

 Ogawa Midori a ensuite expliqué son propre parcours dans des classes de culture pour non spécialistes, en s’appuyant sur une analyse comparée du Procès (roman de Franz Kafka et film d’Orson Welles), expérience qui a donné des clés essentielles pour enseigner à des non-natifs. Elle a notamment pointé que « d’une certaine manière, avec la naissance du cinéma, le roman lui a cédé le rôle de décrire les gens, leur quotidien, ce que Langlois appelle “prépondérant de la vie”, puisque le cinéma les exprime mille fois mieux, en les replaçant dans une temporalité réelle, c’est-à-dire en mouvement ».

 François Bizet a pris le relais afin de remettre en perspective les points de convergences entre littérature et cinéma, abordés par Mme Ogawa, et montrer comment ce dernier nourrit fondamentalement l’enseignement de la première. Il a notamment rappelé que « le détour par la rhétorique filmique n’est pas une complication, au contraire, c’est le plus souvent une prise d’élan et un raccourci. Je crois que cela vient d’abord de ce que “l’image-mouvement” (Deleuze) possède une qualité de présence qui allège l’accès au jeu et au sens des formes. Je ne dis pas qu’elle les rend immédiats: il faut encore analyser l’image et lui faire dire ce qu’elle ne fait que montrer, mais il me semble que les étudiants sont moins inhibés devant le défilement des images que devant une page hermétiquement figée ».

 Pour conclure, Olivier Ammour-Mayeur a pris la parole succinctement pour donner quelques exemples de sa pratique avant d’ouvrir le débat.

 Ainsi, de la classe de langue où le film est un support un peu plus ludique que la méthode de langue traditionnelle, en passant par la classe de culture, où le film devient le support d’un autre regard sur la culture étudiée, et sur le monde en général, ou encore dans celle de littérature, où le film permet de nouer ensemble des théories esthétiques et des techniques narratives afin de donner sens à l’œuvre cinématographique, chacune des étapes demande des modalités spécifiques d’approche du support, en fonction du niveau des étudiants.

 En classe de langue, l’un des exercices possibles (donner son opinion sur le film) doit permettre aux étudiants de mobiliser les connaissances acquises (grammaire, vocabulaire, conjugaisons…), dans le contexte d’une méthode, tout en les réagençant selon une perspective plus personnelle et qu’ils se rendent compte qu’un avis doit se motiver et que pour y parvenir, l’utilisation de la langue nécessite une organisation. Non seulement dans la phrase, mais aussi dans l’articulation de chaque phrase avec les autres, afin d’atteindre l’objectif d’exprimer ses idées. Selon le niveau de la classe (1ère, 2ème ou 3ème année), soit l’enseignant laisse les étudiants libres, soit il donne des directives plus précises, afin qu’ils se sentent en sécurité. Car, pour beaucoup, c’est souvent la première fois qu’on leur demande de donner leur opinion (ce dans une langue étrangère).

2009年3月19日 16時09分 [WEB担当]

La Française italienne, L’Italienne française, Le Retour de la tragédie française

書評

Éditions espaces 34, 2007, Montpellier, présentation et édition de Guillemette Marot et Tomoko Nakayama

鈴木康司(中央大学名誉教授)

 1697年にイタリア劇団が、ルイ十四世の逆鱗にふれてパリを追放された後、パリ演劇界に台頭した「市の芝居」は十八世紀全体を通して演劇史上大きな役割を果たしたが、反面、唯一の王立劇団であるコメディ・フランセーズや、十四世の死後1715年にはパリに呼び戻されたイタリア劇団の権利を侵害する存在として迫害を受けた。だが、この両劇団もまた、共に市の芝居を蹴落とそうとする一方、互いに自分たちの喜劇の優位性をアッピールする努力を傾けた。イタリア、フランスそれぞれの喜劇に現れる典型的人物はいずれが優れているか、演技力はいずれの役者たちが上か、作者はどちらが良いか、競えば競うほど、敵意が増す。そのため、この両劇団は1725年ごろには互いに中傷合戦に及ぶほど険悪な関係となった。

 本書ではまずコメディ・フランセーズ側のルグランが書き下ろし、1725年11月5日に同座で初演された『フォリーの即興劇』(プロローグ)と『イタリア風フランス娘』が紹介される。

「プロローグは喜劇の女神タレイアを頼って新作を依頼しようとしたコメディ・フランセーズが女神に断られた末、現れた陽気なフォリーにフランス的な戯曲『新参者』とイタリア的戯曲『イタリア風フランス娘』を提案される。」(本書では出版の目的から外れる『新参者』は省かれている)

 「『イタリア風フランス娘』の舞台はパリ、イタリア人パンタロンはアガティーヌの後見人で彼女との結婚をもくろんでいるが、娘の方は恋人リュシドールと結ばれることを熱望している。女中のニゾンはイタリア女になりすまし、自分を知らぬパンタロンを騙し、音楽教師に化けたリュシドールを招き入れる。ニゾンはいったん正体を暴かれ追い出されるが今度は愚鈍な下僕アルルカンに変装してパンタロンを信用させる。ニゾンは公証人がイタリア語を解さず、パンタロンはフランス語が判らないのを利用して、パンタロンを騙し、アガティーヌとリュシドールの結婚契約書にサインさせてしまう。」

 アルルカンをフランス娘が演じるという新機軸は成功、芝居はその年29回、翌年7回再演された。しかし、音楽、ダンス、ヴォードヴィルを用いたため、音楽権を所有するオペラ界、ヴォードヴィルを自己のものとする市の芝居などから反発を受けたのみか、イタリア喜劇固有の人物であるアルルカンやパンタロンをからかわれたイタリア劇団の反発は激しく、同じ年の12月15日、ドミニクことアルルカン役者で有名なビアンコレッリ、それにロマニェジー、フュズリエの三者によるプロローグつき喜劇『フランス風イタリア娘』が上演される。

 「プロローグではアルルカンとパンタロンが、コメディ・フランセーズにイタリア喜劇の登場人物を使ってからかわれたことを恨み、慈悲の精霊に助けを求めると、精霊は彼らにコメディ・フランセーズに同じことを仕返せと勧める。」

 「リュサンドの侍女コロンビーヌは、女主人の恋人マリオに主人との結婚の約束を守らせようとしているが、肝心のマリオは心変わりしてシルヴィアとの結婚をもくろんでいる。コロンビーヌは男装し、クリスパンを名乗ってマリオの家に入り下僕としてシルヴィアに仕える。コロンビーヌの策略により、仮面舞踏会でシルヴィアと衣装を交換したリュサンドにマリオは引っ掛り結婚を申し込む。シルヴィアは自分に恋していたレリオの求婚を受け入れ、コロンビーヌはアルルカンと結ばれる。」

 前作でフランス娘がイタリア喜劇のアルルカンに扮したように、こちらではイタリア娘がフランス喜劇の人気者クリスパンに扮してふざけてみせる。「目には目を」という仕返しであったが、作品はコメディ・フランセーズの場合と違い失敗に終わった。その理由を語ったのが、最後に収録された『帰ってきたフランス悲劇』である。翌年1月5日にイタリア劇団によりロマニェジー作で上演されたこの小品には、この芝居がイタリア劇団に反感を持つ作家たちの集団による画策で野次り倒され、失敗に終わった経過が述べられている。

 三作品のうち、『フランス風イタリア娘』は18世紀に出版されたが、後の二作は草稿から二人の研究者が版を起し編集したものであり、その努力を大いに多としたい。十八世紀演劇研究の泰斗、フランソワーズ・リュべラン教授の指導のもと、これまで明らかにされなかった十八世紀前半の劇場間の争いに光を当てる原資料の発掘に対して、Marot、中山両氏に敬意を表する。

2009年3月18日 16時12分 [WEB担当]

松澤和宏編『バルザック、フローベール ― 作品の生成と解釈の問題』

書評

「テクスト布置の解釈学的研究と教育」第2回国際研究集会報告書、名古屋大学大学院文学研究科、2008年

和田章男(大阪大学

 本書は2007年12月に開催された名古屋大学文学研究科グローバルCOEプログラム「テクスト布置の解釈学的研究と教育」主催の国際シンポジウム「バルザック、フローベール―作品の生成と解釈の問題」における研究発表を日本語に訳出した報告書である。欧米と日本の錚々たる研究者による14本の論考と口頭発表時の質疑応答から成る。19世紀の二人の大作家を対象として、「生成」と「解釈」を主題化しながらも、理論的・歴史的考察、草稿に基づくテクスト生成研究、小説技法、タイトルの変容、影響関係、源泉調査など内容は多彩である。両作家に関する最新の研究成果を一覧できるだけでも意義深いが、二つのレベルにおける異なる要素の組み合わせが本書をいっそう斬新なものとしている。すなわちバルザックとフローベールとの組み合わせ、そして「生成」と「解釈」との組み合わせである。

 バルザックとフローベール、19世紀の前半と後半に屹立する巨峰とも言える両作家は、とりわけその創作法において著しい相違を示す。前者は90編以上に及ぶ壮大な小説群『人間喜劇』を作り出した多作な作家であるのに対して、後者はわずかに長編5作、短編集1作を公刊した寡作な作家である。この事実を知るだけでも二人の創作過程の違いを推測させるに十分であろう。バルザックは借金を返すためにまさしく猛烈な勢いで執筆・出版を進めてゆく。他方、フローベールは一作につき常におよそ5年の歳月をかけて推敲を重ねている。ステファヌ・ヴァション氏が両作家の創作プロセスの相違を簡潔に紹介しているように、バルザックに関しては自筆の下書きはほとんど残されておらず、実際あらかじめプランや筋書きを決めることなく、印刷過程に進み、ゲラや校正刷りの段階で多くの加筆訂正を行っている。さらには刊行した後にも、再刊の際には変更を加えてゆく。「人物再登場法」も『人間喜劇』という総題も後に考案されたものだ。かたやフローベールはプラン、筋書き、下書きというように極めて秩序立った創作のプロセスを踏まえている。プラン、筋書き段階で作品の構成が確定した後は、文体の彫琢に長い時間をかける。

 出版後もさらに生成と変容をやめることのないバルザックの創作のダイナミズムは作家自身の「再読」という行為に由来すると、鎌田隆行氏は指摘する。村田京子氏の論考においては、ウージェーヌ・シューとのライバル関係に基づく作品タイトルの変容が問題となる。また澤田肇氏の論のように、初期作品から『谷間の百合』への絵画的技法の深化もテクスト生成の問題としてとらえることも可能となる。バルザック論とフローベール論の間に掲載されているジゼル・セジャンジェール氏の『バルザックの読者フローベール』は両作家をつなぐ論考であり、本書の構成に有効な役割を果たしている。印刷されたテクストの数十倍にも及ぶ草稿を残しているフローベールは、プルーストと並んで自筆原稿に基づく生成研究が最も盛んな作家であり、これまでも多くの成果があげられてきた。1970年代から始まった生成研究は、構造主義の影響もあって、禁欲的にテクスト内部の変遷を綿密に調査するものであった。しかしながら本書に収められているフローベール論の多くはそのような枠組みから抜け出し、沢崎久木氏のように実人生における体験と創作の関係に焦点を当てたり、荒原由紀子氏、和田光昌氏のように科学的語彙や言説がどのように作品に取り込まれてゆくかを論じている。

 本書が提出する重要な課題は「生成」と「解釈」の関係性である。つまり、テクストの生成過程の調査は作品解釈に有効か否かという問題である。本書に見られる二つの異なる論はこの問題がまだ未解決であることと共に、豊かな示唆に富んでいることを表している。エリック・ボルダス氏は、理論的考察によって生成研究は解釈をめざしていると論じるのに対して、フローベール草稿の専門家であるエリック・ル・カルヴェーズ氏は『解釈学に逆らって』というタイトルのもとに生成研究の独自性を主張する。本書の編者である松澤和宏氏は、末尾を飾る論文において、『感情教育』の冒頭部分を取り上げつつ、 « Enfin »という言葉の意味が、テクストの生成過程を調べることによって明らかになると、あるいは意味の重層性があらわになると論じる。確かに、草稿に基づく生成研究はテクストが「いかに」変化していくかを記述しながらも、「なぜ」変化したかという理由をも説明する必要がある。「なぜ」という問いかけを最終稿である印刷された作品にまで及ぼすなら、作品解釈とも必然的につながってくると言えるだろう。

 本書はバルザックとフローベールという対照的な創作法を持つ二人の大作家を対象としたことにより、生成論の比較研究の端緒を開いたものであるとともに、草稿のみに留まらない生成研究の広がりと可能性を開示してくれたという意味でも極めて貴重な著である。

2009年3月17日 16時14分 [WEB担当]

『サロメのダンスの起源―フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド』

書評


  サロメのダンスの起源―フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド

 作者: 大鐘敦子 
 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会 
 発売日: 2008/09 
 メディア: 単行本 
 クリック: 28回 


上村くにこ(甲南大学

 一見瑣末でマイナーなテーマが、思いがけなく膨大なスケールの研究に発展することがある。この本を読みながら「サロメのダンス」というテーマもまさしくそれだと思った。「サロメが踊り、その褒美としてヨハネの首が与えられた」というエピソードは、聖書等の古いテキストを見ると、まったく言及されていないか、書かれていてもたった一行ですまされていた。それがフローベールによって初めて言語化されて以来、「ファム・ファタル」の一典型として、マラルメ、ワイルドと引き継がれていった。本書ではサロメのダンスについて、典拠となる聖書や古代の書、さらにルナンなどの19世紀以来の研究書をあまた配置し、またエジプトのオストラコンやギリシアの壷絵、中世の教会のタンパンを経てルネサンスの画家たち、そして同時代のモロー、ルドン、ビアズリーなどの画家をへて、リヒャルト・シュトラウスのオペラ、舞踏家ロイ・フラーまで参照されている。また巻末には、文学だけでなく舞踏や映画まで網羅したヘロディアス=サロメ関係の文芸作品一覧が載っている。この資料だけでも本書を入手する価値ありと思わせるほど、贅沢に手間ひまがかかっている。

 それだけでも驚きに値するのに、さらに大きな驚きが用意されている。世紀末サロメの形成には太陽神話から月の神話への移行がみられるということを納得させる資料がぎっしり詰まっているのだ。中でもフローベールがいかに古代神話を作品のなかに組み込んだかの研究は圧巻である。フローベールの『ヘロディアス』のサロメ像の形成には、月の神話と太陽神話の双方がかかわっているという。筆者は下書き草稿をたんねんになぞり、サロメの母ヘロディアスにキュベレーの刻印を探り出す。キュベレーはプリュギア出身の大地母神で「百獣の女王」とあがめられ、ローマ帝国時代にその信仰が頂点に達した。月の女神アルテミスと同定されることもある。そのアトリビュートはつき従う野獣、城壁や塔あるいは三日月の形をした冠、タンバリン、アネモネの花冠などである。フローベールがヘロディアスに与えたアトリビュートから、筆者はヘロディアスに「ひ弱な男性たちを従える強い女」というファム・ファタルの原型を見出す。母そっくりの娘サロメが踊る場面にもキュベレーの刻印は見られる。サロメが憂愁をこめて踊る場面では、キュベレーの愛人にして息子である「アッティスを嘆く」という言葉が書き加えられ、サロメの髪型は「塔のように」編みあげられていたとある。これは推敲段階で抹消される。筆者はサロメの踊りにともなう音楽の描写にもキュベレーを嗅ぎつける。それはフルートとカスタネットからはじまって、ジングラ、ハープ、ティンパノンと変わってゆく。キュベレーの祭では、僧侶たちが上記の楽器で拍子をとりながら行進し、熱狂の極みで自らの局部を切除するという。フローベールはこの血まみれの儀式と、クライマックスでのヨカナンの斬首とを重ねていると筆者はいう。しかもそれだけではない。サロメのダンスは同時に再生と復活を意味する太陽のシンボルを帯びているという。クライマックスで、サロメは逆立ちをして「巨大なスカラベのように壇上を一周する」。逆立ちの姿勢のまま顎が床を掠めるほどに首をさげ、義理の父と見つめあう。あたかも切られた首のように見えるサロメの顔に、虹のように下穿の布がかかる。スカラベはいうまでもなく再生する太陽のシンボルだし、虹は聖書的コノテーションでは「新しい契約の成立」を暗示しているという。ヨカナン斬首という供儀をへて、ユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への転換が見事に暗示されているというわけだ。唸りたくなる見解である。

 画家モローが描いたサロメの絵画と、フローベールとの関連づけも面白い。モローもまたサロメのダンスを宗教的空間に置いたことに注目し、そこに描きこまれているエフェソスの多乳房のアルテミス像を分析する。

マラルメの、日本ではまだ完訳がない『エロディアードの結婚』の分析も見事だ。それによればマラルメも聖ヨハネの斬られた首=太陽と、エロディアード=サロメ=月あるいは星との交信を暗示した。しかし共通点はここまでで、マラルメは神話を脱構築して、聖ヨハネの首を夏至の太陽のように至高にまで昇ろうとする思考と捉え、「純粋な観念」であるエロディアードとの結婚を想定する。そこでダンスは相互的供犠の身振りとして喚起されることを、ルドンの絵画を援用して説得する。

 ワイルドの『サロメ』の分析はフローベールやマラルメにくらべると短いし、参考資料も少ない。しかしフローベールの影響をさぐり、また「7枚のヴェールの踊り」のなかにイシュタルの冥府下りの神話を見る。

 サロメ神話が現代にどのように表現されているかを扱う最後の章は、前章と比べると物足りないが、ないものねだりというものだろう。ぜひ20・21世紀のサロメの研究が読みたいと思う。

2008年11月8日 16時01分 [WEB担当]

2008年度秋季大会

大会基本情報

2008年度秋季大会

 日 時 2008年11月8日(土)、9日(日)
 会 場
 岩手大学
 参加者
 
 研究発表 45 
 講 演 Yvan Leclerc氏(Université de Rouen)
  La correspondance de Flaubert
 WS1 ネルヴァルと現代性―生誕200周年に際して
 WS2 ポストコロニアルとフランス語表現作家
 WS3 フランス文学とベルギー
 WS4 Pourquoi enseigner le cinéma ?

2008年度秋季大会案内
日時:2008年11月8日(土)& 9 日(日)

会場:岩手大学 学生センター棟(G棟) 〒020-8550 岩手県盛岡市上田3-18-34

大会本部:岩手大学 人文社会科学部 日本フランス語フランス文学会秋季大会実行委員会
   TEL & FAX:019-621-6719  /  e-mail:ntgoto@iwate-u.ac.jp
    ■ お問い合わせは大会本部まで、電話、ファックス、メールまたは郵便でお願いいたします。
    ■ 大会費等は同封の振込用紙にて、2008 年10 月24日(金)までにお振り込みください。
    ■ 大会参加にあたり、招請状の必要な方は学会事務局までご請求ください。
    ■ 委員会、役員会につきましては、学会事務局よりご連絡します。
    ㊟ 岩手大学は完全禁煙キャンパスです。喫煙場所はありませんので、非喫煙者としてお越しください。
    ■ お車でご来場の際は、正門から直進して突当りの第3駐車場をご利用ください。

大会費:1,000 円

昼 食:大会1日目(8日)は、大学生協中央食堂が営業しますのでご利用ください。 
    大会2日目(9日)は、周辺に営業している飲食店がほとんどございませんので、
    お弁当(税込1,000円:お茶付)を用意します。ご希望の方はお申し込みください。
    ■ お弁当引き換え所:学生センター棟1階G1 大教室
    ■ 一般控室:学生センター棟1階G19 教室
    ■ 賛助会員展示場:学生センター棟1階エントランスホール(正面玄関奥)

第1日 11月8日(土)

受 付 12:30~16:00 学生センター棟 玄関
  (懇親会以外の会場は全て学生センター棟です)

開会式 13:30~13:50 2階G2 大教室
 開会の辞    岩手大学   山 本 昭 彦
 開催校代表挨拶 岩手大学学長 藤 井 克 己
 会長挨拶    東京大学   塩 川 徹 也

研究発表会 2~4階
 第1セッション 14:00~15:30
 第2セッション 15:45~16:45
 第3セッション 17:00~18:00

懇親会 19:00~21:00
 会 場 ホテル・メトロポリタン盛岡NEW WING 4階
       TEL:019-625-1211(盛岡駅前北通)
 会 費 事前申込:7,000円(当日受付:8,000 円)
     学生& 発表者&司会者事前申込:5,000 円
     (学生&発表者&司会者当日受付:6,000円)
 会場へのアクセス:学生センター棟前より送迎バス
     17:40 発 & 18:10 発 & 18:30 発の3便

研究発表会 第1セッション 14:00-15:30
A-1 語学・語学教育 G22
司会 大久保 朝憲(関西大学

1.ひろく持つ―手仕事の可能性
  小田 麻里名(愛知教育大学非常勤講師)

2.代名動詞受動的用法の表すモダリティについて
  山田 博志(筑波大学教授)

3.意味の不完全決定性とトートロジーの解釈―阿部 (2008)を批判する
  酒井 智宏(日本学術振興会特別研究員)

B-1 18世紀 G21
司会 阿尾 安泰(九州大学

1.ルソーの幸福論―地上に生きる人間として
  井上 のぞみ(岩手大学非常勤講師)

2.哲学者としてのリベルタン―サドのリベルタンの理想像
  林 學(徳島文理大学文学部教授)

C-1 19世紀(2) G31
司会 岩切 正一郎(国際基督教大学

1.ネルヴァル『幻視者』における政治と宗教―「カリオストロ」における革命の祭典を中心に
  辻川 慶子(同志社大学非常勤講師)

2.七月王政期の学校教育とボードレールの詩想
  畠山 達(東京大学大学院博士後期課程)

3.ランボーにおける身体表現―キリスト教に抗して
  塚島 真実(東京大学大学院博士後期課程)

D-1 19世紀(5) G32
司会 阿部 宏(東北大学

1.16歳の処女論文─ソシュールの伝記的一事実について
  金澤 忠信(東京大学助教)

2.スタンダールの『ローマ散策』と新義「イタリアニスム」の起点―『バイアーノの修道院』著者考証II
  山本 明美(神戸大学非常勤講師)

3.Balzac et l’envers du monde
  Igor Sokologorsky(Lecteur étranger à l’Université du Kyushu)

E-1 20世紀(1) G41
司会 中野 知律(一橋大学)

1.プルーストとラシーヌ悲劇―『フェードル』を中心として
  松原 陽子(早稲田大学大学院博士後期課程)

2.プルーストとライプニッツ―自我とモナドをめぐって
  西脇 雅彦(早稲田大学大学院博士後期課程)

3.『失われた時を求めて』における「夜」と「昼」―反復の諸相
  青木 幸美(皇學館大学非常勤講師)

F-1 20世紀(3) G42
司会 吉田 裕(早稲田大学)

1.観念なき理想化―1930年代におけるブルトンのオブジェ論について
  有馬 麻理亜(日本学術振興会特別研究員)

2.「断片的なエクリチュール」における中世文学の影響―ジョルジュ・バタイユの「ポエジー」について
  市橋 明典(明治学院大学非常勤講師)

3.ジョルジュ・バタイユとアンドレ・ブルトンの「魔術的芸術」について
  荻野 厚志(一橋大学大学院博士課程単位取得退学)

G-1 20世紀(6) G46
司会 安原 伸一朗(日本大学)

1.ベケットによるフランス語使用とその言語観
  鈴木 哲平(日本学術振興会特別研究員)

2.マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』―固有名の構築とその崩壊としてのテクスト
  関 未玲(立教大学非常勤講師)

3.見ること、触れること―モーリス・ブランショにおける「距離をおいた接触」について
  門間 広明(早稲田大学助手)



研究発表会 第2セッション 15:45-16:45
A-2 16世紀 G22
司会 濱田 明(熊本大学

1.「語り手」から「書き手」へ―『パンタグリュエル』とラブレー
  佐藤 正樹(早稲田大学非常勤講師)

2.16世紀末期におけるアレゴリー詩法の変容―ミシェル・キリアン『黙示週』(1597)三日目「飢餓について」を中心に
  林 千宏(大阪大学大学院博士後期課程)

B-2 19世紀(1) G21
司会 小野 潮(中央大学

1.隠遁者、野生人、蛮人―シャトーブリアン『歴史研究』におけるギボンの活用
  片岡 大右(日本学術振興会特別研究員)

2.Moïse, « Antique et moderne », mais non « Puissant et solitaire » lectures du livre de l’Exode
  Geneviève FONDVILLE (Chargée de cours, titulaire, à l’Université de Sophia)

C-2 19世紀(3) G31
司会 吉田 典子(神戸大学)

1.ゾラの小説における女中の役割―家庭の中の主従関係
  寺嶋 美雪(東京大学大学院博士課程)

2.ゾラのイデオロギー小説におけるオペラ
  田中 琢三(日本学術振興会特別研究員)

D-2 19世紀(6) G32
司会 川瀬 武夫

1.マラルメと「フランス精神」
  熊谷 謙介(日本学術振興会特別研究員)

2.マラルメにおける斬首のテーマ
  内藤 元和(立教大学教育講師)

E-2 20世紀(2) G41
司会 小倉 和子(立教大学)

1.『よじ登る』におけるジャック・デュパンの詩学―破壊と構築
  中山 慎太郎(学習院大学大学院博士後期課程)

2.イヴ・ボヌフォワの芸術論における母親像
  今村 公佐(東京大学大学院博士後期課程単位取得退学)

F-2 20世紀(4) G42
司会 北山 研二(成城大学

1.記憶と可逆性―アルフレッド・ジャリの「タイム・マシン」
  合田 陽祐(上智大学大学院博士後期課程)

2.Procédé et/ou processus―レーモン・ルーセル『アフリカの印象』の生成をめぐって
  永田 道弘(名古屋大学グローバルCOE研究員)

G-2 20世紀(7) G46
司会 渡辺 芳敬(早稲田大学)

1.媒介としての写真―草稿から見る『明るい部屋』の賭け金
  桑田 光平(東京大学大学院博士課程)

2.なぜ『知覚の現象学』はあのように終わっているのか?
  合田 正人(明治大学教授)

研究発表会 第3セッション 17:00-18:00
A-3 中世 G22
司会 原野 昇(放送大学

1.フランス語韻文「トリスタン物語」におけるブランジアン―meschine, damoisele, magistre, nuirreture
  上杉 恭子(東京大学大学院博士課程)

B-3 17世紀 G21
司会 友谷 知己(関西大学)

1.Un témoin de la première querelle du théâtre en France: le Prologue de La Porte, comédien à Bourges, contre les Jésuites, (6 octobre 1607).
  Michaël DESPREZ(Professeur titulaire, Université Sophia)

C-3 19世紀(4) G31
司会 佐藤 正年(熊本学園大学

1.エミール・ゾラの『ごった煮』における「予告」と狂人の関係―サチュルナン像の変遷
  中村 翠(京都大学大学院博士後期課程)

2.ポーリーヌの宗教―ゾラ『生きるよろこび』に関する試論
  渡辺 智浩(一橋大学大学院博士後期課程)

D-3 19世紀(7) G32
司会 山崎 冬太(東北学院大学

1.マラルメのポー翻訳
  原山 重信(慶應義塾大学非常勤講師)

2.マラルメにおける死―ヴィリエ=ド=リラダンとのかかわり
  原 大地(日本学術振興会特別研究員)

E-3 19世紀(8) G41
司会 朝比奈 弘治(明治学院大学)

1.ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』の「典拠」―そのテクスト構成のメカニズム
  石橋 正孝(日本学術振興会特別研究員)

F-3 20世紀(5) G42
司会 星埜 守之(東京大学)

1.エメ・セゼール『帰郷ノート』におけるアフリカと帰郷
  小松 正道(関西学院大学大学院博士課程後期課程)

2.忘却、痕跡、創造的想起—P.シャモワゾーの『独房での日曜日』を中心に
  廣松 勲(モントリオール大学大学院博士課程)

G-3 20世紀(8) G46
司会 鈴木 雅生(共立女子大学

1.アントナン・アルトーのメキシコ体験をめぐって
  稲葉 剛(早稲田大学大学院博士後期課程)

2.ル・クレジオの島への旅の記録―『ロドリゲス島への旅』と『ラガ―見えない大陸への接近』の比較
  桜井 典夫(國學院短期大学非常勤講師)

第2日 11月9日(日)
受 付 9:30~13:30 学生センター棟 玄関
    (以下の会場は全て学生センター棟です)

特別講演会 10:00~11:30 2階G2 大教室
 題 目    La correspondance de Flaubert 
 司 会    名古屋大学   松 澤 和 宏
 講 師    ルーアン大学  Yvan LECLERC(フランス政府文化使節) 

ワークショップ 12:45~14:30 2~4階

総 会 14:40~15:20 2階G2 大教室
 議 長    成城大学    有 田 英 也

閉会式 15:20~15:30 2階G2 大教室
 会長挨拶   東京大学    塩 川 徹 也
 閉会の辞   岩手大学    後 藤 尚 人

特別講演会 La correspondance de Flaubert
 講 師:Yvan LECLERC(Professeur à l'Université de Rouen, invité en mission culturelle avec le soutien de l'Ambassade de France au Japon)
 司 会:松澤 和宏(名古屋大学)

 イヴァン・ルクレール教授は、検閲の問題をはじめ19世紀文学に造形の深いフローベール研究の第一人者である。『ボヴァリー夫人』の全草稿の電子テクストによる生成批評版をインターネット上で公開して、国際的な反響をよんだことは記憶に新しい。J・ブリュノーによるプレイヤッド版『書簡集』編纂を引き継ぎ、昨年最終(第5)間を上梓している。『書簡集』は文学理論の観点から60~70年代に高く評価されたが、そうした評価をも相対化してしまう独特の魅力を湛えている。今回の講演は、『書簡集』刊行の歴史を振り返り、チボーデとプルーストの論争の背後にある書簡家フローベールと小説家フローベールの「対立」に触れながら、『書簡集』の価値やその批評的活用について考察し、手紙の詩学に説き及ぶ予定である。

ワークショップ
WS1 ネルヴァルの現代性を探る―生誕200年に際して
コーディネーター:朝比奈 美知子(東洋大学)
パネリスト:水野尚(関西学院大学)、野崎歓(東京大学)、湯沢英彦(明治学院大学)

 「ぼくに残る最後の狂気、それは自分自身を詩人だと思いこむことでしょう」―同時代の仲間から「優しいジェラール」とよばれたネルヴァルのこの言葉の裏には、激しい精神の闘争の軌跡が秘められている。彼の「狂気」の源泉は、その個人的な資質ばかりでなく、むしろ、彼が生きた「近代」の病理に見出されるのではないか。彼は、発展と爛熟の裏で回復不能な疎外を生むこの時代に対する反抗を「狂気」という形で提示したのである。しかしながら、同時代のボードレールが、あるいは、20世紀のプルーストやシュルレアリストたちが看破したごとく、「狂気」の詩人は、みずからを蝕む虚無の土壌と夢の間ではてしない放浪を続けながら、病める時代からの確信犯的な逸脱を企て、新たな時代を拓く言葉の霊感をしたたかに模索していた。随所に奇妙な空白感、断層、亀裂を秘めた「狂気のエクリチュール」は、どこへ向かおうとしていたのか? それは現代のわれわれに何を示唆するのか? 生誕200年というひとつの節目にあたり、受容史の検証、現代文学との接点の検討を加えつつ、ネルヴァルの作品に秘められた現代性を探りたい。

WS2 フランス語表現作家とポストコロニアル
コーディネーター:立花英裕(早稲田大学)
パネリスト:中村隆之(明治大学)、鵜戸聡(日本学術振興会特別研究員)、工藤晋(東京都立芸術高校)、大辻都(東京大学大学院博士課程)

 このワークショップでは、「移動」を一つのキーワードとして幾人かのフランス語表現作家を比較しながら、第2次世界大戦以降のポストコロニアルな状況の中でフランス語圏文学がどのような展開を見せたのかを検討する。取り上げる作家は、カリブ海域と北アフリカを中心に活動したフランツ・ファノン、カテブ・ヤシン、マリーズ・コンデ、エドゥアール・グリッサンの4人である。これらの作家は、マリーズ・コンデだけが10歳前後若いものの、ほぼ同時代の空気を吸いながら、多元的な移動の中で言語創造と思索を進めたという共通性がある。彼らの言語的・空間的移動は、第3世界の独立闘争とネグリチュードの運動とともにヨーロッパ植民地主義を批判し、解放と自立を求めて展開されるが、政治と言語・文化の問題が未分化といってよい状況の中でそれぞれに独自の様相を帯びていく。このような4人の軌跡の共通点と相違を検証する中で、20世紀後半のフランス語圏文学の特質を考えてみたい。

WS3 フランス文学とベルギー
コーディネーター:海老根龍介(白百合女子大学
パネリスト:岩本和子(神戸大学)、吉村和明(上智大学)、田母神顕二郎(明治大学)

 いま、なにか唐突な感じでフランス語圏とオランダ語圏の分離を唱える声が湧出しはじめている多言語国ベルギー。そのフランス語作家は、何「文学」に帰属するのか、をはじめとして、ベルギーのフランス語文学といわゆる「フランス文学」が取り結ぶ、奇妙で複雑な相互関係をあらためて考察しようという企画です。問題設定の見取り図と展望を岩本和子氏が提出し、それを受けて、美学的側面から「モデルニテ」の旗印のもとでのロップス、ユイスマンス、テオ・アノンのコラボレーションについて吉村和明氏が、ベルギー出身でありつつベルギー文学への帰属を拒否したアンリ・ミショーの詩的立場について田母神顕二郎氏が、それぞれ報告を行います。それをもとに、日本という外側からの視点のもとにはじめて意識され、みえてくるはずの言語と文学をめぐる問題化を、会場からの参加とともに討論形式で行います。ふるってご参加ください。

WS4 Pourquio enseigner le cinéma?
コーディネーター:Olivier AMMOUR-MAYEUR(立教大学)
パネリスト:François BIZET(青山学院大学)、森田 秀二(山梨大学)、小川 美登里(筑波大学)

 Pourquoi est-il devenu urgent de prendre en compte le cinéma comme support d’enseignement de la langue et de la littérature française dans les classes? C’est à cette question qu’entend répondre cet atelier.

 Il ne s’agit pas seulement d’employer le cinéma comme support à un cours de langue, mais bien aussi de montrer que le cinéma permet d’entrer de plain-pied dans la culture et dans la littérature. Qu’il s’agisse de montrer les liens entre littérature et adaptations cinématographiques, ou encore, ce qui est sans doute plus intéressant, de montrer les liens théoriques qui existent entre ces oeuvres narratives dont beaucoup de notions critiques sont communes, chaque croisement entre ces deux disciplines artistiques indique des forces communes qu’il faut chercher à exploiter au maximum afin de capter l’attention des étudiants et afin de leur montrer qu’une image s’analyse autant qu’un texte; et enfin que savoir lire l’un c’est savoir lire l’autre.

 Pendant cet atelier, chaque intervenant présentera succinctement la façon dont le cinéma est devenu un élément moteur de sa classe (de langue et/ou de littérature), avant qu’un échange avec la salle permette d’approfondir les possibilités d’exploitation de ce support dans nos cours.