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2009年3月19日 16時09分 [WEB担当]

La Française italienne, L’Italienne française, Le Retour de la tragédie française

書評

Éditions espaces 34, 2007, Montpellier, présentation et édition de Guillemette Marot et Tomoko Nakayama

鈴木康司(中央大学名誉教授)

 1697年にイタリア劇団が、ルイ十四世の逆鱗にふれてパリを追放された後、パリ演劇界に台頭した「市の芝居」は十八世紀全体を通して演劇史上大きな役割を果たしたが、反面、唯一の王立劇団であるコメディ・フランセーズや、十四世の死後1715年にはパリに呼び戻されたイタリア劇団の権利を侵害する存在として迫害を受けた。だが、この両劇団もまた、共に市の芝居を蹴落とそうとする一方、互いに自分たちの喜劇の優位性をアッピールする努力を傾けた。イタリア、フランスそれぞれの喜劇に現れる典型的人物はいずれが優れているか、演技力はいずれの役者たちが上か、作者はどちらが良いか、競えば競うほど、敵意が増す。そのため、この両劇団は1725年ごろには互いに中傷合戦に及ぶほど険悪な関係となった。

 本書ではまずコメディ・フランセーズ側のルグランが書き下ろし、1725年11月5日に同座で初演された『フォリーの即興劇』(プロローグ)と『イタリア風フランス娘』が紹介される。

「プロローグは喜劇の女神タレイアを頼って新作を依頼しようとしたコメディ・フランセーズが女神に断られた末、現れた陽気なフォリーにフランス的な戯曲『新参者』とイタリア的戯曲『イタリア風フランス娘』を提案される。」(本書では出版の目的から外れる『新参者』は省かれている)

 「『イタリア風フランス娘』の舞台はパリ、イタリア人パンタロンはアガティーヌの後見人で彼女との結婚をもくろんでいるが、娘の方は恋人リュシドールと結ばれることを熱望している。女中のニゾンはイタリア女になりすまし、自分を知らぬパンタロンを騙し、音楽教師に化けたリュシドールを招き入れる。ニゾンはいったん正体を暴かれ追い出されるが今度は愚鈍な下僕アルルカンに変装してパンタロンを信用させる。ニゾンは公証人がイタリア語を解さず、パンタロンはフランス語が判らないのを利用して、パンタロンを騙し、アガティーヌとリュシドールの結婚契約書にサインさせてしまう。」

 アルルカンをフランス娘が演じるという新機軸は成功、芝居はその年29回、翌年7回再演された。しかし、音楽、ダンス、ヴォードヴィルを用いたため、音楽権を所有するオペラ界、ヴォードヴィルを自己のものとする市の芝居などから反発を受けたのみか、イタリア喜劇固有の人物であるアルルカンやパンタロンをからかわれたイタリア劇団の反発は激しく、同じ年の12月15日、ドミニクことアルルカン役者で有名なビアンコレッリ、それにロマニェジー、フュズリエの三者によるプロローグつき喜劇『フランス風イタリア娘』が上演される。

 「プロローグではアルルカンとパンタロンが、コメディ・フランセーズにイタリア喜劇の登場人物を使ってからかわれたことを恨み、慈悲の精霊に助けを求めると、精霊は彼らにコメディ・フランセーズに同じことを仕返せと勧める。」

 「リュサンドの侍女コロンビーヌは、女主人の恋人マリオに主人との結婚の約束を守らせようとしているが、肝心のマリオは心変わりしてシルヴィアとの結婚をもくろんでいる。コロンビーヌは男装し、クリスパンを名乗ってマリオの家に入り下僕としてシルヴィアに仕える。コロンビーヌの策略により、仮面舞踏会でシルヴィアと衣装を交換したリュサンドにマリオは引っ掛り結婚を申し込む。シルヴィアは自分に恋していたレリオの求婚を受け入れ、コロンビーヌはアルルカンと結ばれる。」

 前作でフランス娘がイタリア喜劇のアルルカンに扮したように、こちらではイタリア娘がフランス喜劇の人気者クリスパンに扮してふざけてみせる。「目には目を」という仕返しであったが、作品はコメディ・フランセーズの場合と違い失敗に終わった。その理由を語ったのが、最後に収録された『帰ってきたフランス悲劇』である。翌年1月5日にイタリア劇団によりロマニェジー作で上演されたこの小品には、この芝居がイタリア劇団に反感を持つ作家たちの集団による画策で野次り倒され、失敗に終わった経過が述べられている。

 三作品のうち、『フランス風イタリア娘』は18世紀に出版されたが、後の二作は草稿から二人の研究者が版を起し編集したものであり、その努力を大いに多としたい。十八世紀演劇研究の泰斗、フランソワーズ・リュべラン教授の指導のもと、これまで明らかにされなかった十八世紀前半の劇場間の争いに光を当てる原資料の発掘に対して、Marot、中山両氏に敬意を表する。