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2009年3月18日 16時12分 [WEB担当]

松澤和宏編『バルザック、フローベール ― 作品の生成と解釈の問題』

書評

「テクスト布置の解釈学的研究と教育」第2回国際研究集会報告書、名古屋大学大学院文学研究科、2008年

和田章男(大阪大学

 本書は2007年12月に開催された名古屋大学文学研究科グローバルCOEプログラム「テクスト布置の解釈学的研究と教育」主催の国際シンポジウム「バルザック、フローベール―作品の生成と解釈の問題」における研究発表を日本語に訳出した報告書である。欧米と日本の錚々たる研究者による14本の論考と口頭発表時の質疑応答から成る。19世紀の二人の大作家を対象として、「生成」と「解釈」を主題化しながらも、理論的・歴史的考察、草稿に基づくテクスト生成研究、小説技法、タイトルの変容、影響関係、源泉調査など内容は多彩である。両作家に関する最新の研究成果を一覧できるだけでも意義深いが、二つのレベルにおける異なる要素の組み合わせが本書をいっそう斬新なものとしている。すなわちバルザックとフローベールとの組み合わせ、そして「生成」と「解釈」との組み合わせである。

 バルザックとフローベール、19世紀の前半と後半に屹立する巨峰とも言える両作家は、とりわけその創作法において著しい相違を示す。前者は90編以上に及ぶ壮大な小説群『人間喜劇』を作り出した多作な作家であるのに対して、後者はわずかに長編5作、短編集1作を公刊した寡作な作家である。この事実を知るだけでも二人の創作過程の違いを推測させるに十分であろう。バルザックは借金を返すためにまさしく猛烈な勢いで執筆・出版を進めてゆく。他方、フローベールは一作につき常におよそ5年の歳月をかけて推敲を重ねている。ステファヌ・ヴァション氏が両作家の創作プロセスの相違を簡潔に紹介しているように、バルザックに関しては自筆の下書きはほとんど残されておらず、実際あらかじめプランや筋書きを決めることなく、印刷過程に進み、ゲラや校正刷りの段階で多くの加筆訂正を行っている。さらには刊行した後にも、再刊の際には変更を加えてゆく。「人物再登場法」も『人間喜劇』という総題も後に考案されたものだ。かたやフローベールはプラン、筋書き、下書きというように極めて秩序立った創作のプロセスを踏まえている。プラン、筋書き段階で作品の構成が確定した後は、文体の彫琢に長い時間をかける。

 出版後もさらに生成と変容をやめることのないバルザックの創作のダイナミズムは作家自身の「再読」という行為に由来すると、鎌田隆行氏は指摘する。村田京子氏の論考においては、ウージェーヌ・シューとのライバル関係に基づく作品タイトルの変容が問題となる。また澤田肇氏の論のように、初期作品から『谷間の百合』への絵画的技法の深化もテクスト生成の問題としてとらえることも可能となる。バルザック論とフローベール論の間に掲載されているジゼル・セジャンジェール氏の『バルザックの読者フローベール』は両作家をつなぐ論考であり、本書の構成に有効な役割を果たしている。印刷されたテクストの数十倍にも及ぶ草稿を残しているフローベールは、プルーストと並んで自筆原稿に基づく生成研究が最も盛んな作家であり、これまでも多くの成果があげられてきた。1970年代から始まった生成研究は、構造主義の影響もあって、禁欲的にテクスト内部の変遷を綿密に調査するものであった。しかしながら本書に収められているフローベール論の多くはそのような枠組みから抜け出し、沢崎久木氏のように実人生における体験と創作の関係に焦点を当てたり、荒原由紀子氏、和田光昌氏のように科学的語彙や言説がどのように作品に取り込まれてゆくかを論じている。

 本書が提出する重要な課題は「生成」と「解釈」の関係性である。つまり、テクストの生成過程の調査は作品解釈に有効か否かという問題である。本書に見られる二つの異なる論はこの問題がまだ未解決であることと共に、豊かな示唆に富んでいることを表している。エリック・ボルダス氏は、理論的考察によって生成研究は解釈をめざしていると論じるのに対して、フローベール草稿の専門家であるエリック・ル・カルヴェーズ氏は『解釈学に逆らって』というタイトルのもとに生成研究の独自性を主張する。本書の編者である松澤和宏氏は、末尾を飾る論文において、『感情教育』の冒頭部分を取り上げつつ、 « Enfin »という言葉の意味が、テクストの生成過程を調べることによって明らかになると、あるいは意味の重層性があらわになると論じる。確かに、草稿に基づく生成研究はテクストが「いかに」変化していくかを記述しながらも、「なぜ」変化したかという理由をも説明する必要がある。「なぜ」という問いかけを最終稿である印刷された作品にまで及ぼすなら、作品解釈とも必然的につながってくると言えるだろう。

 本書はバルザックとフローベールという対照的な創作法を持つ二人の大作家を対象としたことにより、生成論の比較研究の端緒を開いたものであるとともに、草稿のみに留まらない生成研究の広がりと可能性を開示してくれたという意味でも極めて貴重な著である。