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2005年11月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評
 

スタール夫人 (Century Books―人と思想)

作者: 佐藤夏生
出版社/メーカー: 清水書院
発売日: 2005/11
メディア: 単行本
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佐藤夏生『スタール夫人』
評者:大竹仁子

 人の生き方はさまざまである。多くの人は、風土や国や時代に、また育った環境に、その生活や思想を大きく左右される。一見自分の人生とは無関係に思える、古い時代や異国の人生に、人はなぜ興味を抱くのだろうか。人生は決して平坦でもなく、幸せに充ちたものでもない。むしろ苦渋に充ちている。美しく善良な人生も人の心を洗うが、社会常識を大きく逸脱した行動や苦難に充ちた人生の方が、かえって私たちの心を慰め、安心させてくれるとでもいうのだろうか。そんな疑問に、佐藤夏生氏の『スタール夫人』は充分答えてくれる。18世紀後半から19世紀初頭にかけての激動期を、もがき苦しみながら、燃え上がる想いを全開して潔く生きるスタール夫人の言動は、見えない未来に不安を抱いて日々を送る私たち現代人に、生きるための力強い勇気を与えてくれるようだ。

 フランス革命期に活躍した財務総監ネッケルの娘、時の権力者ナポレオンに屈せず、国外追放の憂目を見た女性、ロマン主義理論構築の先駆者といった断片的な知識は持っていても、これまで日本では、スタール夫人の著作に深く親しみ、充分な研究が重ねられてきたとは言い難い。佐藤夏生氏の『スタール夫人』は、その生涯と思想に深く踏み込んだ、日本では初めての本格的なスタール夫人伝記と言えるだろう。

本書の構成は大きく二部に分かれており、第一編では、革命期を生きる夫人の生涯、とりわけその感情生活が史実に沿って描かれる。結婚前の教育を世間とは隔絶した修道院で受けることの多かった当時の上流階級の子女とは違って、ネッケル嬢は母親の開くサロンで大人たちから直接多くを学んだ。社会や政治の現実について熱弁をふるう大人たちの姿は利発な少女の心を大いに刺激したようだ。18世紀の啓蒙思想家、とりわけルソーに影響を受ける。サロンは、終生、夫人の学びの場となり、思考の場となり、活躍の場となる。

 プロテスタントの両親により、「善であり、清らかである自然の命ずるままの心の宗教を与えられた」と筆者は記す。美男だが情熱のない夫、終生敬愛し続けた強い父親、父親に感謝の念を抱き続ける潔癖な母親、そのような環境の中で、スタール夫人の心身は自由にはばたく。当時の上流階級の結婚は、産む性としての女性に家系を正統に継承していく義務は課すが、既婚女性の恋愛には比較的寛容であった。夫人の情熱と資産は何と多くの才能ある青年たちを惹きつけたことだろう。しかし、激情の持続時間は短い。恋愛の対象が多くなるのも当然かもしれない。そして、それらの恋愛感情はいつも夫人に並外れた行動を促した。新しく恋心が芽生えると夫人の政治活動も活発となり、行動範囲も広がり、文筆活動も進む。いかに才能があっても当時の女性に政治参加は許されていない。恋を得ると、精神が高揚し、正義感が溢れて、まるで恋する男性を通して夫人の政治的野望が開花するかのようである。時の権力の象徴、ナポレオン皇帝にすら戦いを挑むのである。ただ、時には恋する男性に深く傷つけられながらも、その戦いの矛先は、決して弱者を救うためにではなく、精神の自由を守るために、自由を阻む権力に対して敢然と向かっていく。その姿は女性というより闘志を燃やす男性の雄姿そのものである。

 第二編では、主に著作を通して夫人の思想が語られる。まず、父親譲りの強い意志をもって主張し続ける夫人の政治的見解が丁寧に解説される。革命の渦中にあって、革命の歴史的必然性を認めつつ、その残虐性をも目にした女性の率直な言動は毅然としていて快いが、混乱の中で瞬時の判断を余儀なくされた夫人の悲鳴も聞こえてくる。「平和」と「自由」を説き、魂は情熱から解放されて哲学的な思索を経てこそ宇宙を実感する幸せを得るのだと冷静に説いて、混迷する社会に秩序を取り戻そうとする夫人、その諸言動の根底には「人間精神の無限進歩」という歴史観が存在すると著者は述べる。次いで、文学者、小説家としての夫人が語られる。哲学的な思想に裏付けられた文学こそが革命で傷ついた人々の「魂を揺さぶるもの」であると、文学の社会的役割を強く意識する夫人。ここでは、ロマン主義理論構築の最大のキーワード、精神の高揚とでも訳すべき「アントゥジアスム」についても詳細に分析される。さらに、女性論、小説論、また多くの国を旅した夫人のヨーロッパ比較文化論など、さまざまな研究への可能性が示唆されている。

 『スタール夫人』は、未来を予測することの難しい現代にあって、多くの人に生きることの意味を深く考えさせるきっかけとなることだろう。また、シモーヌ・バレイエ氏のおかげで、1960年頃からスイスやフランスで盛んになってきたスタール夫人研究の経緯や現状も概観されており、夫人の研究を志す人たちにとってその全貌を知るための必読の書と言えるだろう。