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2006年5月1日 12時32分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評
 

日仏交感の近代―文学・美術・音楽

作者: 宇佐美斉
出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
発売日: 2006/05
メディア: 単行本
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宇佐美斉編『日仏交感の近代 文学・美術・音楽』
評者:中地義和

 本書は、京都大学人文科学研究所において2002年度より4年にわたって行なわれた共同研究の成果である。450ページにのぼる大著で、20本の論文をI.出会いと触発、II.受容と創造、III.虫と花のジャポニスム、IV.もう一つのオリエンタリスム、V.幻のパリ、の5部に分け、各パートに4本の論文を配している。力作ぞろいのこれらの論文は、明治の開国以来、日仏両国間で展開されてきた芸術・文化の面での相互的な触発のありさまを、個別例に即してたどるものである。副題が示すとおり、対象は文学、美術、音楽の分野にまたがり、論者の切り口もじつに多様であるが、受容の実態を克明に跡づけるにとどまらず、異文化に遭遇した、あるいはそのさなかに身を投じた作家や芸術家が、その衝撃をみずからの創作にいかに取り込んだかに、言いかえれば、受容と創造行為との結節点に、光をあてる方針を採っている点が特徴的である。

 表題の「交感」に対応する仏語は«communication»でも«communion»でも«correspondance»でもない。邦題に添えられた仏語題はModernité des empathies franco-japonaises. Littérature, Art, Musiqueである。«empathie»とは、対象に内側から同一化しようとする熱烈な想像力の働き、すなわち「感情移入」を意味する哲学・心理学用語であり、アリストテレス以来、芸術享受の重要なファクターでもある。総じて本書を構成する論文は、二つの文化の境界に生起する事象を扱いながら、異文化の不可解さや疎外感に煩悶する精神の劇を扱ったり、認識の誤謬を誤謬として批判したりするよりは、誤謬や歪曲も含めて異文化体験の創造性を浮き彫りにすることに力点が置かれている。

 収録論文中、たとえば、島崎藤村が姪との過ちをリアルタイムで告白=懺悔した新聞連載小説『新生』へのルソー『告白』(『懺悔録』)の関与の研究、林達夫がソクラテスの「反語的順応主義」を論じながら行なったジャンケレヴィッチからの「引用符なき引用」が、単なる剽窃を超えた「共振」であったという立論などは、文学・思想の領域における創造的受容を顕揚する本書の方向性をよく示している。また、凋落の季節である秋に関して、同じくフランス近代詩から出発しながら、一方には三木露風を軸とする「日本的情調派」形成の動きが生まれ、他方には富永太郎「秋の悲歎」、中原中也「秋の愁嘆」、また小林秀雄の『地獄の季節』「別れ」(「もう秋か…」)訳に代表される、手本に忠実な硬質の叙情が生まれるというふうに、受容から創造へのモメントでの分岐の指摘も興味深い。

 異文化に魅了される者は無色透明ではありえず、自分を自分たらしめている所与でもって異質なものを同化しようとするのがつねである。本書で文学を扱った論文の多くはまた、フランスの作家や作品に見出される特質が自国の文化伝統のなかにも根づいていると感じ、そう感じることで対象の異質性を無化しようとする傾向がなかば普遍的に存在する事実を明るみに出す。たとえば、日本詩歌の「押韻論」を提起しみずから実践した九鬼周造の、脚韻が東洋起源であり、『万葉集』にも脚韻らしいものが見られるという説、理論的素養を備えた実作者としてヴァレリーの詩から多大な影響を受けた詩人竹内勝太郎が、「海辺の墓地」を「華厳経の一即多の世界に比すことのできる完璧な世界と解釈し」、ヴェルレーヌに代表されるフランス象徴詩を「自然主義的表象主義」と呼んだ岩野泡鳴が、それが「生への欲望(生慾)」に特徴づけられる点で「大和民族の古代思想」に通じるものであると主張した事例などがそれにあたる。本書では扱われていないが、ボードレールの散文詩を哲学的コントと捉え、『枕草子』や『徒然草』のような日本の随筆の伝統に接近させ、みずからもアフォリズムの色濃い散文詩を実践した萩原朔太郎の例を加えることもできるだろう。

 音楽や美術の分野でも、文学に劣らず興味深い例が紹介されている。明治期の洋楽導入におけるドイツ音楽の優位に対抗して、フランス近代音楽を、演奏ではなく作曲の手本としてクローズアップする動きが生まれたとき、少なからぬ作曲家や愛好家がドビュッシーの音楽と日本的旋律との親近性を主張した。逆に、寶塚少女歌劇団の初期レビューの演出家の一人、白井鐵造は、同胞を蔑視する西洋かぶれを地で行きながら、架空の「パリ」イメージを演出しつづけ、日本への無関心と無教養を自己の文化的ステイタスを高める逆説的手段にさえしたという。

 憧れのフランス文化のなかに身を置きながら、フランス人の期待に答えるべく西洋的なものへの関心を抑制し、みずからの内なる日本や東洋を研ぎ澄ました二人の画家、山本芳翠と高島北海のケースも、じつに興味深い。前者は西園寺公望とジュディット・ゴーチエ(テオフィールの娘)の「共訳」になる翻訳和歌集『蜻蛉集』の挿絵画家として評判をとったが、その絵は「日本の伝統に忠実であるよりは、ヨーロッパの人々がそうあってほしいと思うような『日本の伝統』に忠実だったのかもしれ」ず、後者は農商務省の官吏として派遣されたナンシーの町で、習得した西洋絵画の素養を封印し、しかも自国の伝統を見せるために、得意とする山岳画ではなく花鳥風月を墨で描いた、そしてこの経験を通じて日本画を発見したとされる。受容から創造に向かう歩みは、しばしば他者の好みや関心に合わせた自己演出へと反転する。しかもそれは必ずしも否定的なことではなく、他者の視線が才能を引き出すことがありえるという点がおもしろい。異文化への自分の関心と対をなす自国の文化への外国人の関心を前にしたときに作動する大小の政治的身ぶり,それを規定する当人の才能と歴史的条件─それらの絡みを具体的に垣間見せてくれる点が本書の読ませどころの一つである。四半世紀前、筆者が留学していたころのパリには、フランス人のもつある種の日本女性像に生身の自分を合わせるためであろう、日本ではあまり見かけないおかっぱの女子留学生がやたら多かった。芸術、表象の次元に限らず、ともすれば相手のもつイメージや思考パターンに即して生身の自己を歪曲することは現実にも容易に起こる。しかしその歪曲に創造的可能性がはらまれていないとはだれにも言えない。

 本書には、『お菊さん』のロティ、『人間の条件』のマルローのような、「日本」を書いたフランス人作家に見られる「オリエンタリスム」への目配りも、ジャポニスムの波のなかに生きたフロベールやプルーストにとっての日本がいかなるものであったかへの顧慮も欠けてはいない。しかし数のうえでは、日本人のフランス文化受容とそれを起点とする創造行為とに割かれた考察が圧倒的に多い。このような日仏芸術文化交渉史の多角的研究が企てられるのは、現実の交渉が新たな局面に入った証でもある。事実、一昔前と較べれば、彼我の相互的関心の優劣は逆転している。異文化との対峙の過去を検証する本書は、おのずとその現在を照らし、グローバル化時代の受容と創造とのありうべき関係についてもろもろの示唆を投げかける。