Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

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2006年10月1日 15時05分 [WEB担当]

lcahier 00, juillet 2007

書評
 

テクスト理論の愉しみ―1965‐1970 (ロラン・バルト著作集 6)

作者: ロランバルト,Roland Barthes,野村正人
出版社/メーカー: みすず書房
発売日: 2006/06/01
メディア: 単行本
クリック: 13回


 

小説の準備―コレージュ・ド・フランス講義1978‐1979年度と1979‐1980年度 (ロラン・バルト講義集成)

作者: ロランバルト,Roland Barthes,石井洋二郎
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2006/10
メディア: 単行本
クリック: 12回


『ロラン・バルト著作集』全10巻 みすず書房、『ロラン・バルト講義集成』全3巻 
評者:筑摩書房(遠藤文彦)

『ロラン・バルト著作集』全10巻は、スイユ社から刊行されたバルト全集(1993-1995年に初版全3巻、2002年に改訂増補版全5巻、底本は後者)の翻訳である。ただしみすず書房より既刊の単行本25冊分は除外されているので、それらとこの『著作集』とを合わせて「バルトが出版したものすべて」の翻訳ということになる。みすず書房以外から出ている既訳テクストについては新訳ないし完訳として収められている。(以下はもっぱら訳業としての本著作集についての評である。)

 まず初訳分について言うと、その主要な意義は、いうまでもなくこれを以てバルトの著作全部が日本語で読めるようになったことにある。それらの大半は雑誌等に発表された大小の論文だが、上の編集方針により、既訳の論集等に未収録のものに限られる(ちなみに全集原典では死後刊行論集所収論文はばらして年代順に並べ直されている)。見方を変えて言えば、初訳のものは、各論集の編纂上の分類から漏れた(あるいはそれを免れた)テクスト群からなるとも言える。そのなかには主要著作の理解に資するものや、ヴァリアント研究の対象になりうるものなどがあるが、それ自体として魅力的なのは、やはり最初期(第1巻)と最晩年(第10巻)のものであろうか。

 新訳・完訳分に関して言えば、その意義は、文献として旧訳より価値が高まっているかということに係っているが、この点は大いに評価できる。第3巻『現代社会の神話』を際立った例として挙げれば、まずこれは抄訳であった旧訳『神話作用』の完訳である。文献考証的には、いまや半世紀も前のフランスの時事問題が対象となっているがゆえに個々の事象に関わる正確で詳細な注釈が求められるところ、これが非常に満足のゆく形で遂行されている。ごく限られた注しかない原典を読んでいるだけでは、抽象的論述はどうにか理解できても、具体的対象物を知らないために往々にして雲をつかむような感じになりがちだが、その辺りのもどかしさを文字通り雲散霧消させてくれるのである。ここに窺いうる新訳・完訳分の充実振りからして、除外された既訳分のいくつかについても、新訳ないし改訳の必要性が感じられるところである。

 各巻のタイトルについてはひとつ疑問がある。全集原典にタイトルはないので、これはこの『著作集』用に用意されたものである。第3巻『現代社会の神話』はMythologiesの完訳、第5巻『批評をめぐる試み』はEssais critiquesの、第7巻『記号の国』はL’Empire des signesの新訳であるから、タイトルは当該単行本のタイトルの訳(新訳)である。他の巻についてはバルトのテクストのタイトルではないことに注意しておくべきだろう。例えば第2巻『演劇のエクリチュール』は演劇関連のテクストを多く含むが、それのみではなく、第6巻『テクスト理論の愉しみ』は時期的に「テクスト」理論の展開期に対応するが、それに関するテクスト以外のものもある。錯覚してならないのは、この『著作集』はテクストを選別してテーマ毎に配した著作集(既刊の『記号学の冒険』や『言語のざわめき』などのような)ではなく、あくまで素材そのものをもれなく発表年順に並べた全集なのだということである。その各巻に、刊行上の理由はともあれ、実質的なタイトルを付すことは、それが妥当なものに見えればなおさら、単なる編年体である以上の意味づけ方向づけを資料に与えかねないのではないか。

 『ロラン・バルト講義集成』全3巻は、コレージュ・ド・フランスでの4期に渡る講義ノートを活字化したものである(録音された講義そのものとつき合わせて編んだ書物ではない)。いずれの講義も、題目に表れたテーマは旧いようで(あるいはむしろそれゆえに)新しくもあるが、反対に、講義自体がバルトの知的軌跡のなかで「特異な位置を占めている」(まえがき)のは事実として、むろんそこから完全に離れてはおらず、そこに主題上の照応物を見出すことはできる。

 1976-1977年度の『いかにしてともに生きるか』は『サド、フーリエ、ロヨラ』(1971年)に顕著なユートピア的共生空間の探求に動機づけられている。後者はバルトの著作の中でも比較的言及されることの少ない作品だが、その流れでゆくと、ギリシャ・アトス山の修道院生活を重要なレフェランスとする本巻も3巻のなかでは進んで取り上げられることの少ないものとなるかもしれない。これは日本の知的風土と関係があるのだろうか。しかしバルトは1974年の小文でユートピアを忌避する傾向を明確に「われわれの時代の平板さ」に帰している。30年後の現在どれだけ状況が変わったかは、希代のユートピア的「勇気」(同)の持ち主であったというサドやフーリエにならってみずからユートピア構築にあたるバルトのパトスに、われわれがどれだけ共感できるかで計られるだろう。

 1977-1978年度の『〈中性〉について』は、言説における「中性」の型(figure)について講じたものであるが、これも『エクリチュールの零度』(1953年)以来の意味の免除を理想値とするユートピア的探求の集大成とみなしうる。中期には「『S/Z』の最初の草稿」と評される「男性、女性、中性」(1967年『著作集』第6巻)など、むしろ本講義の最初の草案ないしプロローグとみなしていい論考もあった。後期にも『テクストの快楽』(1973年)や『彼自身によるバルト』(1975年)などにその種の考察が散りばめられている。講義は一見淡々と進められているようだが、その実、新たに出来した実存的「起源」として、母との死別およびみずからの老いの意識という強度のパトスに差し向けられている。それが、本来なら輝かしくあるべき集大成をどこかくすんだものとし、そこに虚ろなものを穿っているように見えるが、同時に、次年度から始まる新たな言説の探求、その探求に全面的に費やされるべき「新生」へとバルトを突き動したようにも思われる。

 1978-1979年度および1979-1980年度の『小説の準備』は、初年度が「?生から作品へ」、次年度が「?意志としての作品」と題する。前者は、俳句についての考察を介して真実と虚偽の二律背反に由来する「生から作品へ」の移行の困難さ(バルト自身における)を結論とし、後者は、何かを書こうと欲する者(に同一化したバルト自身)が実際に書き始める前に/書いているときに/書き続けるために乗り越えねばならない一連の「試練」について語る。考察の主体であるバルトがみずからを対象化し自己演出するこの講義は、それ自体が「シナリオ」に基づく「物語」なのであって、そこには同時期に書かれていた『明るい部屋』(1980年)に通じるものがある。かの「写真に関するノート」が読者に与えたのと同系のパトスを、この講義ノートも喚起するだろう(講義そのものは独特のユーモアを湛えているだけになおさらだ)。なかでも「普遍的ルポルタージュ」の倣岸さに文学的「ジャルゴン」の悲劇的力を対置させるくだり(講義最終日前半部)には文字通りのカタルシスさえ覚える。

 それにしても、バルトは長広舌(discourir)を厭い断章を好んでいたはずだから、その彼が晩年にいたって〈小説〉という記念碑的言説形態にこれほど強い関心を寄せ、そこにマニアックなまでの詳細な分析を加えたことを意外に思う向きがあるかもしれない。しかしバルトにおいては、小説にせよ批評にせよ、言説一般についての先鋭な理論的意識とともに、新たな言説形式を模索する実践的試みの跡が、著作全体を通じて認められるのである(これは彼を作家として規定する最小限の、しかし重要な根拠だ)。そうした省察=探求の軌跡がより明瞭に見えてくることもまた、今回の『著作集』+『講義集成』の刊行に期待しうる主要な効果のひとつとなるであろう。