Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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その他の研究レビュー

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書評コーナー

2015年11月11日 21時17分 [admin]

cahier電子版のための書評執筆のお願い

研究情報委員会では、年二回刊行の学会広報誌cahierに書評を掲載してまいりましたが、今後、このcahierの書評に加えて、学会HP上のcahier 電子版(Site Web cahier)に「書評コーナー」を設け、以下の要領で随時募集した書評をよりタイムリーに電子版に掲載していくことにいたしました。奮ってご執筆いただければ幸いです。

 書評対象:原則として、過去1年間に刊行され、その内容から広く紹介するに相応しい学会員による著作を対象とする。翻訳なども含み、日本で刊行された著作には限らない。フランス文化、映画などに関する著作も排除しない。

 学会員による他薦あるいは自薦(自薦の書評も受け付けます)

 字数:(著書名・書名・出版社名・発行年等を除いて)800字以内

 締め切り:随時受付

 宛先:研究情報委員会(cahier_sjllf[at]yahoo.co.jp([at]を@に代えてください)) までメールでお送りください。

 掲載の適否は委員会で判断させていただきます。なお、これらの書評のうち広報誌cahierにも掲載するに相応しいと委員会で判断したものについては、他薦の場合は執筆者にcahier用に2000字程度に手直しをお願いすることがあります。また、自薦の場合は委員会で執筆者を選定して依頼いたします。

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2008年9月1日 17時05分 [WEB担当]

レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』全5巻

書評
 

反ユダヤ主義の歴史〈第1巻〉キリストから宮廷ユダヤ人まで


作者: レオンポリアコフ,L´eon Poliakov,菅野賢治 
出版社/メーカー: 筑摩書房 
発売日: 2005/03 
メディア: 単行本 
クリック: 6回 


レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』全5巻(合田正人・菅野賢治監訳、筑摩書房、2005‐2007年)
評者:田所光男(名古屋大学

 アウシュヴィッツにおけるガス室の問題など第二次世界大戦史の「些事」にすぎない、というジャン=マリー・ル・ペンの反ユダヤ主義的挑発(第5巻188頁)に賛同する人は、日本の大学関係者の中にはいないであろうが、しかし、なぜユダヤ人の過去の苦しみばかりを語って、彼らがパレスチナで加害者でもある現状には目を向けないのか、と感じている人はキャンパス内には少なくないようである。こうして本書も、ただユダヤに関心を抱く少数の人にとってのみ貴重な文献になってしまうのであろうか。

 先住民や奴隷の視座から書かれたアメリカ史が、独立宣言の理念に即して描き出されたものとは随分異なるように、ヨーロッパの歴史も、そこで差別や迫害、改宗や追放、そして殺戮を受け続けてきたユダヤ人に焦点を合わせて俯瞰してみると、見慣れた立派な風景はかなり違って見えてくる。シェークスピアやマルクスといったよく知られたケースばかりではない。ヴォルテールやゲーテの反ユダヤ主義的言辞はどう理解すればいいのか。「アメリカには黒人問題など存在しない。白人問題があるだけだ」というリチャード・ライトの言葉を受けたサルトルの判断を踏まえて、オランダのアーベル・ヘルズベルグは「反ユダヤ主義はユダヤ人の問題ではなく、非ユダヤ人にとっての文明の問題なのだ」と述べている(第5巻128頁)。まさにこういう意味で、本書はヨーロッパ文明に関心を抱くすべての人に、回避してはならない問題を実証的に突きつけてくる。

 もちろんポリアコフは、ユダヤ人社会における多様な反応にも丹念に視線を注いでいる。イディッシュ語による最初の女性回想録を著わしたグリュッケル・フォン・ハーメルの、「純朴にして、気丈な家庭の主婦そのままの趣」をたたえた文章は印象的である(第1巻292‐296頁)。またフランス革命期、ユダヤ人は同化に直線的に邁進したわけでなく、「フランス王権のもとでユダヤ人の自律した封土のようなものをランド地方に建設する」というシオニズム的な構想が、ボルドー周辺のユダヤ人と王党派との間で駆け引きの対象になっていたという興味深い事実も指摘される(第3巻308‐309頁)。さらにまた、キリスト教からの神殺しという伝統的な断罪に対して、ユダヤ人宰相ディズレーリはその同じ宗教的な水準で反論を試みて、「ユダヤ人の下院における被選挙権は、寛容、平等、その他の抽象的な原則によるのではなく、神に選ばれた民が当然行使してしかるべき特権の名において認められるべきである」という主旨の「驚くべき国会演説」を行ったという記述もある(第3巻437‐439頁)。

 本書はフランスで刊行されるやただちに重要なレファレンスとなった。1959年ゴンクール賞を受賞してフランスにおけるショアー文学の先駆けとなったアンドレ・シュヴァルツ=バルトの『最後の正しき人』は、中世以来連綿として続く反ユダヤ主義的事件を描き出すのにこのポリアコフの著作に大きく依存している。また一方、当時大いに話題となったこの小説へのポリアコフによる批判と読める文章が第2巻の「序言」にはあって、今後深めてみたい論点を与えてくれている。

 時代的には「異教古代」から20世紀末まで、地域的にはロシアを含めたヨーロッパを中心にラテン・アメリカや日本まで、この広大な時空を対象にして膨大な史料が渉猟され、しかも記述が恣意的にならないよう細心の注意が払われている。こうしたポリアコフの態度は訳者の皆さんにも受け継がれて、詳しい訳注は解説にとどまらず、時に本文の記述の裏付けをとり、時に本文の議論に「短見」であると筆誅を下していて(第5巻564頁)、読み手は緊張を求められる。

 監訳者のお二人とも「訳者あとがき」の中で言及しているが、私も読み進めながら、イスラーム圏におけるユダヤ人の境遇の問題が気になっていた。特に、チュニジア出身のアルベール・メンミが、反ユダヤ主義の歴史はこれまでほとんど西欧の歴史家によって書かれてきたので北アフリカのユダヤ人の経験が十分に反映されてはいない、と述べていたことがずっと引っ掛かっていた。本書は全体として確かにキリスト教世界だけを対象にしているわけではないが、イスラーム世界では一般に「有機的共生関係」が成り立ってきたと総括されているところは(第2巻54頁)、やはりメンミからすれば納得が行かない点なのかもしれない。

 第5巻末には全巻にわたる事項・人名索引が付されているので、それを活用すると、本書は反ユダヤ主義事典としてもきわめて有用な文献になろう。関心に応じて或る巻だけ読んでも十分刺激的であるが、しかしやはり全体を通読すれば、「文明」を再考し、さらにパレスチナの問題へと思索をつなげる機会になると思う。

 アウシュヴィッツにおけるガス室の問題など第二次世界大戦史の「些事」にすぎない、というジャン=マリー・ル・ペンの反ユダヤ主義的挑発(第5巻188頁)に賛同する人は、日本の大学関係者の中にはいないであろうが、しかし、なぜユダヤ人の過去の苦しみばかりを語って、彼らがパレスチナで加害者でもある現状には目を向けないのか、と感じている人はキャンパス内には少なくないようである。こうして本書も、ただユダヤに関心を抱く少数の人にとってのみ貴重な文献になってしまうのであろうか。

 先住民や奴隷の視座から書かれたアメリカ史が、独立宣言の理念に即して描き出されたものとは随分異なるように、ヨーロッパの歴史も、そこで差別や迫害、改宗や追放、そして殺戮を受け続けてきたユダヤ人に焦点を合わせて俯瞰してみると、見慣れた立派な風景はかなり違って見えてくる。シェークスピアやマルクスといったよく知られたケースばかりではない。ヴォルテールやゲーテの反ユダヤ主義的言辞はどう理解すればいいのか。「アメリカには黒人問題など存在しない。白人問題があるだけだ」というリチャード・ライトの言葉を受けたサルトルの判断を踏まえて、オランダのアーベル・ヘルズベルグは「反ユダヤ主義はユダヤ人の問題ではなく、非ユダヤ人にとっての文明の問題なのだ」と述べている(第5巻128頁)。まさにこういう意味で、本書はヨーロッパ文明に関心を抱くすべての人に、回避してはならない問題を実証的に突きつけてくる。

 もちろんポリアコフは、ユダヤ人社会における多様な反応にも丹念に視線を注いでいる。イディッシュ語による最初の女性回想録を著わしたグリュッケル・フォン・ハーメルの、「純朴にして、気丈な家庭の主婦そのままの趣」をたたえた文章は印象的である(第1巻292‐296頁)。またフランス革命期、ユダヤ人は同化に直線的に邁進したわけでなく、「フランス王権のもとでユダヤ人の自律した封土のようなものをランド地方に建設する」というシオニズム的な構想が、ボルドー周辺のユダヤ人と王党派との間で駆け引きの対象になっていたという興味深い事実も指摘される(第3巻308-309頁)。さらにまた、キリスト教からの神殺しという伝統的な断罪に対して、ユダヤ人宰相ディズレーリはその同じ宗教的な水準で反論を試みて、「ユダヤ人の下院における被選挙権は、寛容、平等、その他の抽象的な原則によるのではなく、神に選ばれた民が当然行使してしかるべき特権の名において認められるべきである」という主旨の「驚くべき国会演説」を行ったという記述もある(第3巻437-439頁)。

 本書はフランスで刊行されるやただちに重要なレファレンスとなった。1959年ゴンクール賞を受賞してフランスにおけるショアー文学の先駆けとなったアンドレ・シュヴァルツ=バルトの『最後の正しき人』は、中世以来連綿として続く反ユダヤ主義的事件を描き出すのにこのポリアコフの著作に大きく依存している。また一方、当時大いに話題となったこの小説へのポリアコフによる批判と読める文章が第2巻の「序言」にはあって、今後深めてみたい論点を与えてくれている。

 時代的には「異教古代」から20世紀末まで、地域的にはロシアを含めたヨーロッパを中心にラテン・アメリカや日本まで、この広大な時空を対象にして膨大な史料が渉猟され、しかも記述が恣意的にならないよう細心の注意が払われている。こうしたポリアコフの態度は訳者の皆さんにも受け継がれて、詳しい訳注は解説にとどまらず、時に本文の記述の裏付けをとり、時に本文の議論に「短見」であると筆誅を下していて(第5巻564頁)、読み手は緊張を求められる。

 監訳者のお二人とも「訳者あとがき」の中で言及しているが、私も読み進めながら、イスラーム圏におけるユダヤ人の境遇の問題が気になっていた。特に、チュニジア出身のアルベール・メンミが、反ユダヤ主義の歴史はこれまでほとんど西欧の歴史家によって書かれてきたので北アフリカのユダヤ人の経験が十分に反映されてはいない、と述べていたことがずっと引っ掛かっていた。本書は全体として確かにキリスト教世界だけを対象にしているわけではないが、イスラーム世界では一般に「有機的共生関係」が成り立ってきたと総括されているところは(第2巻54頁)、やはりメンミからすれば納得が行かない点なのかもしれない。

 第5巻末には全巻にわたる事項・人名索引が付されているので、それを活用すると、本書は反ユダヤ主義事典としてもきわめて有用な文献になろう。関心に応じて或る巻だけ読んでも十分刺激的であるが、しかしやはり全体を通読すれば、「文明」を再考し、さらにパレスチナの問題へと思索をつなげる機会になると思う。