Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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その他の研究レビュー

2015-09-24 [sjllf]
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書評コーナー

2015年11月11日 21時17分 [admin]

cahier電子版のための書評執筆のお願い

研究情報委員会では、年二回刊行の学会広報誌cahierに書評を掲載してまいりましたが、今後、このcahierの書評に加えて、学会HP上のcahier 電子版(Site Web cahier)に「書評コーナー」を設け、以下の要領で随時募集した書評をよりタイムリーに電子版に掲載していくことにいたしました。奮ってご執筆いただければ幸いです。

 書評対象:原則として、過去1年間に刊行され、その内容から広く紹介するに相応しい学会員による著作を対象とする。翻訳なども含み、日本で刊行された著作には限らない。フランス文化、映画などに関する著作も排除しない。

 学会員による他薦あるいは自薦(自薦の書評も受け付けます)

 字数:(著書名・書名・出版社名・発行年等を除いて)800字以内

 締め切り:随時受付

 宛先:研究情報委員会(cahier_sjllf[at]yahoo.co.jp([at]を@に代えてください)) までメールでお送りください。

 掲載の適否は委員会で判断させていただきます。なお、これらの書評のうち広報誌cahierにも掲載するに相応しいと委員会で判断したものについては、他薦の場合は執筆者にcahier用に2000字程度に手直しをお願いすることがあります。また、自薦の場合は委員会で執筆者を選定して依頼いたします。

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2009年3月17日 16時14分 [WEB担当]

『サロメのダンスの起源―フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド』

書評


  サロメのダンスの起源―フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド

 作者: 大鐘敦子 
 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会 
 発売日: 2008/09 
 メディア: 単行本 
 クリック: 28回 


上村くにこ(甲南大学

 一見瑣末でマイナーなテーマが、思いがけなく膨大なスケールの研究に発展することがある。この本を読みながら「サロメのダンス」というテーマもまさしくそれだと思った。「サロメが踊り、その褒美としてヨハネの首が与えられた」というエピソードは、聖書等の古いテキストを見ると、まったく言及されていないか、書かれていてもたった一行ですまされていた。それがフローベールによって初めて言語化されて以来、「ファム・ファタル」の一典型として、マラルメ、ワイルドと引き継がれていった。本書ではサロメのダンスについて、典拠となる聖書や古代の書、さらにルナンなどの19世紀以来の研究書をあまた配置し、またエジプトのオストラコンやギリシアの壷絵、中世の教会のタンパンを経てルネサンスの画家たち、そして同時代のモロー、ルドン、ビアズリーなどの画家をへて、リヒャルト・シュトラウスのオペラ、舞踏家ロイ・フラーまで参照されている。また巻末には、文学だけでなく舞踏や映画まで網羅したヘロディアス=サロメ関係の文芸作品一覧が載っている。この資料だけでも本書を入手する価値ありと思わせるほど、贅沢に手間ひまがかかっている。

 それだけでも驚きに値するのに、さらに大きな驚きが用意されている。世紀末サロメの形成には太陽神話から月の神話への移行がみられるということを納得させる資料がぎっしり詰まっているのだ。中でもフローベールがいかに古代神話を作品のなかに組み込んだかの研究は圧巻である。フローベールの『ヘロディアス』のサロメ像の形成には、月の神話と太陽神話の双方がかかわっているという。筆者は下書き草稿をたんねんになぞり、サロメの母ヘロディアスにキュベレーの刻印を探り出す。キュベレーはプリュギア出身の大地母神で「百獣の女王」とあがめられ、ローマ帝国時代にその信仰が頂点に達した。月の女神アルテミスと同定されることもある。そのアトリビュートはつき従う野獣、城壁や塔あるいは三日月の形をした冠、タンバリン、アネモネの花冠などである。フローベールがヘロディアスに与えたアトリビュートから、筆者はヘロディアスに「ひ弱な男性たちを従える強い女」というファム・ファタルの原型を見出す。母そっくりの娘サロメが踊る場面にもキュベレーの刻印は見られる。サロメが憂愁をこめて踊る場面では、キュベレーの愛人にして息子である「アッティスを嘆く」という言葉が書き加えられ、サロメの髪型は「塔のように」編みあげられていたとある。これは推敲段階で抹消される。筆者はサロメの踊りにともなう音楽の描写にもキュベレーを嗅ぎつける。それはフルートとカスタネットからはじまって、ジングラ、ハープ、ティンパノンと変わってゆく。キュベレーの祭では、僧侶たちが上記の楽器で拍子をとりながら行進し、熱狂の極みで自らの局部を切除するという。フローベールはこの血まみれの儀式と、クライマックスでのヨカナンの斬首とを重ねていると筆者はいう。しかもそれだけではない。サロメのダンスは同時に再生と復活を意味する太陽のシンボルを帯びているという。クライマックスで、サロメは逆立ちをして「巨大なスカラベのように壇上を一周する」。逆立ちの姿勢のまま顎が床を掠めるほどに首をさげ、義理の父と見つめあう。あたかも切られた首のように見えるサロメの顔に、虹のように下穿の布がかかる。スカラベはいうまでもなく再生する太陽のシンボルだし、虹は聖書的コノテーションでは「新しい契約の成立」を暗示しているという。ヨカナン斬首という供儀をへて、ユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への転換が見事に暗示されているというわけだ。唸りたくなる見解である。

 画家モローが描いたサロメの絵画と、フローベールとの関連づけも面白い。モローもまたサロメのダンスを宗教的空間に置いたことに注目し、そこに描きこまれているエフェソスの多乳房のアルテミス像を分析する。

マラルメの、日本ではまだ完訳がない『エロディアードの結婚』の分析も見事だ。それによればマラルメも聖ヨハネの斬られた首=太陽と、エロディアード=サロメ=月あるいは星との交信を暗示した。しかし共通点はここまでで、マラルメは神話を脱構築して、聖ヨハネの首を夏至の太陽のように至高にまで昇ろうとする思考と捉え、「純粋な観念」であるエロディアードとの結婚を想定する。そこでダンスは相互的供犠の身振りとして喚起されることを、ルドンの絵画を援用して説得する。

 ワイルドの『サロメ』の分析はフローベールやマラルメにくらべると短いし、参考資料も少ない。しかしフローベールの影響をさぐり、また「7枚のヴェールの踊り」のなかにイシュタルの冥府下りの神話を見る。

 サロメ神話が現代にどのように表現されているかを扱う最後の章は、前章と比べると物足りないが、ないものねだりというものだろう。ぜひ20・21世紀のサロメの研究が読みたいと思う。