Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

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フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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2009年3月21日 16時01分 [WEB担当]

2008年度秋季大会 ワークショップ3

WS

フランス文学とベルギー

パネリスト 岩本和子(神戸大学)、吉村和明(上智大学)、田母神顯二郎(明治大学)、海老根龍介(コーディネーター、白百合女子大学

 我が国においてベルギーのフランス語文学がいわゆる「フランス文学」と明確に区別されることは稀である。しかし19世紀にオランダの圧政から独立する形で成立したベルギー固有の文脈を考えるとき、私たちが無意識のうちに「フランス文学」の中に位置づけていた出来事や作品は、にわかに不安定な相貌のもとに浮かび上がってくる。フランス語とオランダ語、ラテン文化とゲルマン文化の葛藤が燻り続けているこの国で、「フランス語で書く」作家たちは、ベルギーというトポスを、大国「フランス」に対する位置取りの中で捉えてきたといえる。

 一方で、ベルギーのフランス語文学は、近年注目を集めているポストコロニアルな「フランス語圏文学」では、むろんあり得ない。イギリスの作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』が鋭く描き出したように、コンゴ地域に対するベルギーは、他のヨーロッパ諸国と同様に侵略者であり、植民地主義時代のベルギーのフランス語文学は、帝国主義意識の内面化の記録という側面を顕著に持つ。

 本ワークショップでは、三名のパネリストが、フランス語で文学を生産しながら、「フランス」の外部にあり、しかもまぎれもなく「ヨーロッパ」の一部であり続けるベルギーというトポスを、多様な角度から視界に浮上させた。以下はそれぞれの報告の概要である。(コーディネーター・海老根龍介)


岩本和子

 現在のベルギー王国は、オランダ語・フランス語・ドイツ語を公用語とし、地域別一言語主義(ブリュッセル首都圏のみ蘭仏二言語併用)をとる連邦国家である。〈フランス文学とベルギー〉がテーマであれば、ベルギーのフランス語文学を対象とすることになるが、では南半分のワロニー地域とブリュッセルを覆うフランス語共同体のみに関わるかと言うと、そうではない。いわゆる「ベルギー文学」が存在するのか、その特質やアイデンティティが何なのかを探ろうとする時、1830年の独立以来の状況の変化も視野に入れねばならない。当初はフランス語が実質的な公用語であり、19世紀末からの北部民衆のフランデレン語(オランダ語に馴化)使用者による言語・地域・民族運動の進化とともにオランダ語文学との確執も出てくる。「ベルギー文学」という問いの答えは未だないというのが結論ではあるが、ただそれが常に隣の「フランス文学」との距離で測られてきたのも確かである。

 そこで、「ベルギー文学」の見取り図として、フランス文学とのスタンスの変化により4つの時代に大まかに分けて概観しておくことにする。

1)1830-1880 国全体で上層階級・知識人が使用するフランス語が、文学言語であった。隣国フランスの海賊版出版や亜流作品だけで、「ベルギー文学」はなかったと言われる。ただ独自の芸術文化が国力強化に役立つという意識は強く、ナショナリズムの高揚と一体化して民衆伝承再録や歴史小説の試みはあり、例外的にアンリ・コンシャンス(ただしオランダ語)やド・コステル(ただし世紀末に評価)などが国民的作家として現在にまで残る。

2)1880-1920 ベルギー文芸ルネサンス期とも呼ばれ、ベルギー象徴派が活躍し他国へも優れた理論や作品を発信する。フランスに対する独自性を追求し、ゲルマン性、北方精神を意識する。ヴェラーレン、メーテルランク、ローデンバックらがいる。

3)1920-1950 フランデレン運動が激しくなりオランダ語文学も台頭する。フランス語作家は専らパリでの活動に積極的で、フランスと一体化する。シュルレアリストなどの活動がこの時代に当たる。

4)1950- 「ベルギー」という枠組みが揺れ、フランデレン側を意識しながらフランスに対しても独自性を求めつつ共存を探る。

 1)2)を向心性段階、3)を遠心性段階、そして4)を弁証法的段階とする見方もある。言語の違いを民族性の違いと錯覚すること、パリとの差異化とパリによる認知の必要性のジレンマなどの問題を抱えつつ、現在ではナショナリズムにも地域主義にもこだわらない「ヨーロッパ人」として、単に「フランス語で書く作家」として活躍する作家もいる。トゥーサンやノートンなど、またオランダ語作家としてはヒューホ・クラウスを挙げておく。


吉村和明

 ナミュール生まれの画家フェリシアン・ロップスは、1860年代にブリュッセルでプーレ=マラシやボードレールといったフランスからの亡命者たちの知遇を得る。この決定的経験によってみずからの芸術上の方向性を見定めた彼は、1870年代なかばからパリに拠点を移して活動を続ける。たとえば《アブサントを飲む女》(1876)といった作品に描かれるロップスのパリには、それぞれの個性の違いを別にして、同世代のマネやドガと相同的な〈現実的なもの〉へのアプローチが見いだされる。

 このロップスの作品にいち早く興味を示したのが、ユイスマンスだった。彼はそのことを、ベルギーの詩人・編集者テオドール・アノンに手紙で書き送る。アノンはユイスマンスの自然主義に共感し、以後数年間にわたっていわばその特権的な共犯者となるだろう。彼は1877年初めから雑誌L’Artisteの編集長を務めるが、当初から「自然主義」に好意的だったこの雑誌は、アノンが編集長になってから、「モデルニテ」の美学と結んでその主張をいっそう強く前面に押し出すようになった。そして吹き出しに雑誌のモットーであるnaturalisme, modernitéという言葉が書きこまれた扉絵を制作したのは、ロップスにほかならなかった。

 ロップスは1878年、アノン宛の手紙のなかで、彼自身によるモデルニテの理念を展開している。この理念に共感したユイスマンスは、「1879年のサロン」にこれをほぼそのまま引用する。こうして『ヴァタール姉妹』(1879)から『現代芸術』(1883)まで、「モデルニテ」は、「自然主義」とともに、この時期のユイスマンスを貫く創造と批評の根本原理である。

 いっぽうアノンへの「ノート」を書いた同じ1878年に、ロップスは彼のもっとも重要な作品である《聖アントニウスの誘惑》、《ポルノクラテス》を制作する。狭い意味での自然主義からは逸脱するが、とりわけその(半)裸体はまごうことなき現代のそれであり、アレゴリー的表象という側面をもちながら、リアルであることに変わりはない。

 そしてアノン自身についていえば、彼の雑誌の掲げる「自然主義、モデルニテ」は、彼の代表的な詩集Rimes de joie(1881)の出版によって具体的なかたちを与えられることになった。ユイスマンスが序文を書き、扉絵と挿絵をロップスが制作することによって、三人のコラボレーションが実現したのである。

けれどもこのコラボレーションは波乱含みで、結局三人の方向性の違いを浮き彫りにせずにはいなかった。それぞれの道をたどっていくこれら三人のその後の軌跡は、また別の物語というべきかもしれない。


田母神顯二郎

 フランス文学とベルギーという問題を考える上で、アンリ・ミショーの存在は興味深い例を提示する。彼は帰属を拒絶した作家であり、その作品も、一種の無国籍文学ないし反・ユートピア文学として扱われてきた。それゆえ故国喪失者というイメージも定着しているが、死後発掘された資料からは、違った面が見え始めている。ところで岩本和子氏は、『周縁の文学』の中で、ベルギー文学の特徴を「周縁性」に見出している。それはフランスに対する「周縁」を意味するだけでなく、<中心そのものの拒絶>をも含意する。氏は、19世紀後半からベルギー象徴派にいたるまでの代表的作家のうちにこうした特性を見ようとしているが、それこそはミショーにも共通する傾向である。実際、初期の著作『夢と脚』(1923)では、中心主義や普遍思想を根底から覆そうとする意図を秘めた「断片人間」morceaux d’hommeという存在が登場する。ここで「断片」とは、不完全ではあるが独自の生命と特性をもつ一つの全体であり、ミショーはそうした断片的部位(=地方)の緩やかな連合体として身体・精神・人格を描いている。このヴィジョンは、『グランド・ガラバーニュへの旅』などの作品で更なる発展を遂げるが、彼のベルギー観の中にも窺えるものである。『夢と脚』では、こうした「断片人間」が、統合的・鏡像的身体を持つ「全体人間」に対立させられているが、穿った見方をすれば、ミショーはそこにベルギー性とフランス性の対立をも見ていたのかもしれない。

 ミショーはまた、「ベルギーからの手紙」(1925)という初期のテクストで、ベルギー文学の特徴を単純さsimplicitéと鋭敏な身体感覚のうちに見ている。ここで単純さとは、言葉の虚飾を嫌い、言葉が人を傷つけまた本質から遠ざけさえするものであることに意識的であることを意味する。彼はここにベルギー作家の可能性を見出し、幾人かの作家を「単純さの巨匠」と呼んでもいる。この傾向は、思春期におけるフランドルの神秘思想家との出会いに端を発し、その後東洋思想の影響も受けながら、彼独自の発展を見せるものと考えられる。一方ミショーは、現代にあって、ベルギー芸術の今一つの特質である「身体性」への鋭敏な感覚が、そのままでは生き延びる余地がないことを告げてもいる。「脳化」がいっそう進行する「冷たい血」sang-froidの時代では、ベルギー人の特質である「熱い血」sang-chaudは抑圧される運命にあるのである。だが1930年代以降のミショー作品で主役となっていくのは、去勢され、実質を失った、この上なく冷たい身体である。「断片人間」たちは、ひとたび殺戮されたあと、いかなるアイデンティティも持たないシミュラークル的存在として、作品の主要モチーフになっていくのである。こうした点から見ても、ミショーとベルギーの関係は、相当に深く、錯綜したものであることが予想される。