サドにおける読者
サドにおける読者
パネリスト | 宮本陽子(広島女学院大学)関谷一彦(関西学院大学) 真部清孝(慶應義塾大学非常勤) |
サドは自らの作品を二つのグループに分けている。一方は一般的な読者に向けた表現においても思想においても穏便な作品群であり、もう一方は表現においても思想においても過激な作品群である。18世紀は「公衆」、「世論」、「読者」といったものが形成された時代であるが、わたしたちは二種類の作品群を書き分けているサドにおいて読者というものがどのように考えられていたのかという問題設定をし、具体的な作品を挙げながら考察した。
真部は穏便な作品群(真部はこれをソフトコアと呼ぶ)の代表とも言える、『アリーヌとヴァルクール』について説明した。真部によれば、この作品は、当時、人気の高かった書簡体小説という形、またやはり、ブームであった感傷小説を意識した文体と内容によって読者を拡大しようとする、つまりナイーヴな読者層にも訴えながら読者を教育し、あらたな読者層を開拓すること、つまり、ソフトコアを窓口に過激な(真部はハードコアと呼ぶ)作品群へ読者を満ち導いてやろうするリベルタン的試みである。
関谷は過激な作品群に属する『閨房哲学』について説明した。関谷はまず「暗黙の読者」というものを想定し、リベルタンから教育を受ける登場人物と重なる読者、リベルタンの言説を理解し自由な想像力を持つリベルタン=サドの分身的読者、そしてリベルタンの共犯者としての読者等、可能な読者像を挙げ、最終的には、作中人物への虐待がサド自身の義母への復讐になっていること指摘しつつ、記述行為の主体であるサドが自身に向けて発信しているということを述べた。
宮本は2番目のジュスチーヌ作品と3番目の『新ジュスチーヌ』が当時の人々の間で混同されていたこと、サドはこの作品が自分のものであることを公には否定しつつも、彼個人と彼の作品に対する非難を吸収しながら作品を加筆し、膨大なものに膨らませていったことを説明した。悪評、「世論」を形成する「公衆」はサドにとって敵のようなものであったが、彼はこれを自らのエクリチュールのなかに変形しつつ包括することでこれと対峙した。(宮本)