Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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cahier第31号が発行されました

2023年3月29日 11時24分 [sjllf]

cahier第31号が発行されました。

下記のリンクよりご覧ください。

cahier 31.pdf

(更新:2023年9月18日 10時38分)
cahier第31号が発行されました
2023-03-29 [sjllf]

その他の研究レビュー

2015-09-24 [sjllf]
2013-05-04 [sjllf]
2012-05-23 [sjllf]

書評コーナー

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2008年3月1日 17時54分 [WEB担当]

私市保彦・加藤尚宏責任編集『バルザック幻想・怪奇小説選集』全5巻

書評


 

百歳の人―魔術師 (バルザック幻想・怪奇小説選集)


作者: オノレ・ドバルザック,私市保彦
出版社/メーカー: 水声社
発売日: 2007/04
メディア: 単行本
クリック: 14回


評者:松村博史(近畿大学

 今回出版された『バルザック幻想・怪奇小説選集』は、バルザックといえば『人間喜劇』、『人間喜劇』といえばレアリスム小説という「常識」のいわば裏を行くものだ。全5巻のうち、『人間喜劇』からの作品は第3巻と第4巻のみで、第1,2,5巻はそれ以外から採られている。選集の中で『人間喜劇』から選ばれている作品にしても、通常バルザックの代表作と考えられている作品とは違う、現実とは何らかの意味で乖離した背景を持つものばかりである。

 バルザックの主要作品を読むだけでも大変なのに、まして『人間喜劇』以外の作品となると、専門家以外にはとても手が回らないと考えるのが普通ではないか。プレイヤード版では『人間喜劇』全12巻に続いて、『諸作品集』が全3巻刊行予定のうち第2巻まで出ているが、本国フランスにおいてさえこれをどのくらいの人が読んでいるか。

 しかしこの選集はそうした作品を専門家だけではなく一般読者に向けて、誰が読んでも間違いなく楽しめる小説を選び、現代的な軽快で切れ味のいい日本語で翻訳しているという点が第一の功績だ。フランスにおいてもバルザック生誕二百周年の1999年に、この選集にも収められた『百歳の人』『アネットと罪人』を含むバルザックの初期小説集が、碩学アンドレ・ロラン氏の編集により手頃な価格で読みやすいブッカン版で刊行されているが、それにも比べることの出来る試みだと言えよう。

 全5巻のうち、第1巻『百歳の人』と第2巻『アネットと罪人』は、バルザックがのちに『人間喜劇』に収められる作品を書き始める前に書いた、「青年期の小説」あるいは「初期小説」と言われる作品のうちの二つである。これらの作品は、バルザックが金のために書き散らした通俗的な小説と一般には受け止められているが、読み返してみるとそれだけではないことが改めて実感できる。

 『百歳の人』においては、名門貴族の始祖で十六世紀以来ずっと若い娘の生命を奪いながら生き続けているベランゲルト=スキュルダンという人物が登場する。もちろん三百年の寿命を持つ人間など存在しないという意味では、これは非現実的な「怪奇」小説と位置づけられるだろうし、荒唐無稽と言われても仕方ない。しかしよく読むと、この作品の中では貴族の血筋の永続性を象徴すると思われる「百歳の人」が、自らの能力と才能だけでのし上がってきたナポレオンの人物像と巧みに対比させられ、主人公のテュリウスは二つの価値観の間で思い悩み、揺れ動くことになる。そのように見ると、この作品はこれを書いた当時のバルザックにとっての「現代」を表現しているのであり、この時点における作家の時代の証言ということにもなるだろう。

 『アネットと罪人』は、大罪を犯した海賊の首領と信仰に篤い清純な少女との恋愛を描いた小説で、当時流行していた「盗賊小説」の系譜に属する大衆小説であるが、『人間喜劇』の読者にとってはのっけから人物描写がのちの作品に見出されるそれに近づいていることに気付かされることになる。そこにはすでに人相学の萌芽が見られ、描写から導き出される人物の性格がのちの物語の展開を決定していくという、バルザック作品の紛れもない特質が見出されるのである。解説で監訳者の私市氏も指摘するように、この小説には「ほとんど『人間喜劇』にとどかんばかりの部分が随所に見られる」のであり、「後年の『人間喜劇』に発展する原石」が光輝を放っている。

 第3巻『呪われた子他』と第4巻『ユルシュール・ミルエ』は、『人間喜劇』に属する作品から採られており、その中でも幻想的あるいは超現実的な特徴を持つ作品が集められている。これらを見れば、青年期の小説に特徴的な、一見現実離れした諸要素は、決して初期作品に限られず、バルザックののちの作品にも一貫して存在し続けていることがわかる。

 第3巻に収められた8編の中短編の特徴はさまざまだが、例えば『百歳の人』に見られた貴族の血筋の継承という問題は、この巻の『エル・ベルドゥゴ』や『不老長寿の薬』『呪われた子』にも直結する。これは解説で芳川泰久氏が明らかにしている父親殺しのテーマとも関連するだろう。その他に悪魔との契約というテーマを十九世紀のパリに顕現させてみせる『神と和解したメルモス』、炎天下の砂漠における兵士と牝豹との恋を描く『砂漠の情熱』、パリのサロンでの会話を枠として恐怖を伴う恋愛のエピソードをモザイクのように積み重ねていく『続女性研究』など、バルザックにおける幻想・怪奇の様々な相をここでは見ることができる。

 第4巻の『ユルシュール・ミルエ』は1841年の長編小説で、この作家としてはほとんど後期にかかろうとする時期の作品である。そこには身寄りのない主人公の少女ユルシュールの財産が親戚の者たちに奪われようとする中、死んだはずの養父が夢枕に立ち、財産をせしめようとする者たちの犯罪を彼女の目の前にまざまざと映し出し、さらに悪党たちの末路まで予見して見せる場面があり、それが筋の展開の上で中心的な位置を占めている。この作品には、現代の言葉で言うならば心霊現象、透視、予知夢などの超常現象が見られ、『人間喜劇』の中でもSF的な側面を持つ異色の作品だが、それが金銭欲に囚われた人間どもの醜悪さを浮き彫りにすると同時に、そうした社会の中で倫理を確立することの難しさあるいは不可能性をかえって明らかにする。

 バルザックにおける非現実的あるいは超現実的要素は、『人間喜劇』の小説群において早い時期に限られるわけでも、周辺的な位置を占めているわけでもなく、同時代の社会の描写、風俗研究的な要素に有機的に結びつき、その本質的な部分となっている。バルザックの描く非現実は、いわば現実を理解させ、その意味をより明確にするために引かれた補助線のようなものだ。こうした諸要素の存在もまた、『人間喜劇』が社会全体の縮図となることを可能たらしめているのである。

 第5巻に収録された作品は、本選集で読むことのできるさまざまな文章の中でもとりわけ特異なものである。「動物寓話集」は、1842年(バルザックの作品が『人間喜劇』の総題のもとに出版され始めたのと同じ年である)に、『動物の私的公的生活情景』のタイトルで出された戯文集からの抜粋である。この作品を一言で表現するなら、十九世紀フランス版鳥獣戯画ということになるだろう。ここには猫、ロバ、ライオンなどの動物、雀などの鳥だけではなく、虫(染料の原料となるエンジムシ)までが登場し、同時代のフランス社会を諷刺してみせる。しかし同時にこの作品は、同じ巻に収められた古今の哲学者・政治家の饗宴を描く「魔王の喜劇」、「廃兵院のドーム」とともに当時の世相についての言及が随所に見られ、幻想的でありながらジャーナリスティックな側面も併せ持っている。

 この選集の持つもう一つの魅力は、これまで見てきてわかるように、テクストの選び方の妙である。ここに含まれる作品は、単に読んで面白く引き込まれるというだけではなく、バルザックにおける幻想・怪奇的な側面の諸相を明らかにし、それが持つ本質的な意味合いについて考えさせる。少し前に刊行され、バルザック作品全体の山稜を成す小説を集めた藤原書店の「『人間喜劇』セレクション」とともに、現代を代表するバルザック翻訳の成果と言えよう。
2008年3月1日 00時00分 [WEB担当]

『バルザック、フローベール 作品の生成と解釈の問題』

グローバルCOEプログラム「テクストの布置の解釈学的研究と教育」第2回国際研究集会報告書
松澤和宏編、名古屋大学大学院文学研究科発行、2008年

 開会の辞
佐藤彰一
1
 序文
松澤和宏
 3
 生成論は解釈学か?
エリック・ボルダス
7
 民主主義的小説と人間的なるものの邂逅
フィリップ・デュフール
15
 バルザックの作品生成における循環的ダイナミズム―『セザール・ビロトー』
 を中心に
鎌田隆行
27
 バルザック生成論の展望
ステファンヌ・ヴァッション
39
 バルザック『ラ・ラブイユーズ』のタイトルを巡る考察
村田京子
53
 『ヴァン=クロール』から『谷間の百合』へ―絶えざる生成途上の風景画と
 肖像画
澤田肇
63
 バルザックの読者フローベール―『感情教育』あるいは小説の再創造
ジゼル・セジャンジェール
75
 解釈学に逆らって―『ボヴァリー夫人』の場合
エリック・ル=カルヴェーズ
85
 フローベールの「黒い太陽」―実人生から作品へ
沢崎久木
99
 ことばと化石―『ブヴァールとペキュシェ』における地質学
荒原由紀子
107
 フロベール『ブヴァールとペキュシェ』における科学論的両義性の解釈に
 ついて
和田光昌
117
 フローベールと民主主義小説
菅谷憲興
127
 『純な心』におけるコルミッシュ爺さんの挿話の発展
黒川美和
135
 生成論と解釈学―『感情教育』の冒頭「ついに船が出た」をめぐって
松澤和宏
 143 

2008年2月29日 17時46分 [WEB担当]

HARA (Taichi), Lautréamont vers l’autre, L’Harmattan, 2006「テクストへの回帰」

書評


評者:石井洋二郎東京大学

 世界のロートレアモン研究の潮流は、ジャン=ジャック・ルフレールによるかなり確度の高い(ただし決定的ではない)詩人の肖像写真の発見をきっかけとして、1980年代以降は明らかに実証的な事実の探索にシフトしていった。ルフレールの主宰する雑誌『カイエ・ロートレアモン』に寄稿する一群の研究者たちは、イジドール・デュカスの、さらには彼を取り巻く縁者や友人たちの細かな伝記的情報を掘り起こすことに専念し、作品そのものをどう読むかという問題にはほとんど関心を払ってこなかったといっても過言ではない。しかしもちろんその一方で、ジャン=リュック・ステンメッツのように「テクストへの回帰」を標榜する論者も少なからず存在している。本書は、そのステンメッツのもとで本格的な研究を始めた著者が2004年にパリ第4大学に提出した博士論文に手を加えたものであり、まさにテクストへの回帰を果敢に実践した意欲的な労作である。

 全体は三部構成になっている。 「運動する詩」Poésie en mouvement と題された第一部では、「反復」の概念を鍵として『マルドロールの歌』(以下、『歌』と略記)のテクストが具体的かつ綿密に分析される。この作品ではしばしば同一のフレーズが繰り返されるが、こうした修辞的技法は本来、操作主としての作者がテクストにたいして絶対権を振るう超越的な地位にあることを前提としている。ところが『歌』における反復は作品が進むにつれて単なる技巧としての範疇をはみ出し、エクリチュールを駆動するひとつの内在的な力学となっていく。そしてこの作品を彩る最も特徴的な形象である回転運動のうちに「書く主体」自身をも巻き込み、表象主体と表象対象のあいだに成り立っていたはずの安定した構図そのものを揺るがすに至るのである。

 「詩のモラル」Morale de la poésieと題する第二部では、ロートレアモン=イジドール・デュカスの作品の倫理的側面に焦点が当てられる。『歌』と二冊の『ポエジー』との一見矛盾した関係については、これまでもさまざまな見解が提示されてきたが、著者はまず『ポエジー』に見られる「悪」から「善」への決定的な転換の意味を探り、否定の対象とされているロマン派詩人たちの「疑惑の詩」と「悪」の問題を検証した上で、そこから時間的にさかのぼって『歌』のテクストを逆照射するという手順を踏んでいる。ここで重要なファクターとして導入されるのが「アイロニー」の概念であり、これをキーワードとして『歌』における悪の称揚がもつ両義性が鮮やかに浮き彫りにされる。

 第一部が作品の修辞学的分析、第二部が倫理学的分析として性格づけられるとすれば、「夢」Le rêve と題する第三部は主題論的分析と呼ぶことができよう。『歌』における夢(あるいは目覚め)や眠り(あるいは不眠)というテーマ設定自体はとりたててめずらしいものではないが、著者はシュルレアリスム、バシュラールの精神分析批評、ル・クレジオなどを周到に参照しながらも、そのいずれにも回収されることのない立場から夢とそれにまつわるもろもろの主題(夜、彷徨、通過、水、等々)について自在に論じている。著者の筆が最も伸び伸びと冴えている部分といっていいだろう。

 以上は多岐にわたる内容のきわめて大雑把で不十分な紹介にすぎないが、私が何よりも感銘を受けたのは、著者がこれまでの研究史を十分に踏まえながらも、それらのいずれにも安易に依拠することなく、あくまで自分自身の知性と感性を武器として詩人と正面から対峙しようとしている、その基本的なスタンスの潔癖さである。確かにこの選択は自由な議論の展開を可能にする反面、全体を縫い合わせる統一的な方法論が見えにくくなる危険性と背中合わせでもあり、本書にもそうした徴候を看取する読者がいるかもしれない。しかし全体を読んでみれば、タイトルに掲げられた「他者の方へ」という言葉が第一部から第三部までを基調低音のように貫いていることがはっきり感じ取れるはずだ。詳細に論じる余裕はないが、本書の統一性はできあいの方法論によってではなく、「他者」をめぐる思考という一貫した問題意識によって支えられているのだと私は了解した。

 本書には「文学的創造と伝達についての研究」というサブタイトルが付されており、その意味するところは「結論」で明快に総括されているが、これはおそらくロートレアモンに限らず、文学全般にたいする著者の関心のありかを端的に示す言葉でもあるだろう。じっさい、原氏は近年、マラルメを中心とするより広汎なフィールドに領域を拡大し、この問題に新たな光を投げかける仕事を展開している。近い将来、さらに大きな視点からその成果がまとめられる日の来ることを期待したい。

 フランス語は明晰で淀みがなく、緻密な思考の運動を十分に支えている。なお、著者は本書によって2007年度の第24回渋沢・クローデル賞を授与された。

2008年2月28日 16時14分 [WEB担当]

村田京子『娼婦の肖像 ロマン主義的クルチザンヌの系譜』

書評

 

娼婦の肖像―ロマン主義的クルチザンヌの系譜

作者: 村田京子
出版社/メーカー: 新評論
発売日: 2006/12
メディア: 単行本
クリック: 32回


村田京子『娼婦の肖像 ロマン主義的クルチザンヌの系譜』
評者:松本伊瑳子(名古屋大学

 ジェンダーとは何か? それは「文化的・社会的に作られた性」と説明されるが、換言すれば、ある一時期、ある社会において、特に女性の生き方・あり方に対する規範があり、様々なエクリチュールによって強化・伝搬され、それを男女が内面化していくということである。エレーヌ・シクスーは「メデューサの笑い」において、エクリチュールは主に男性によって支配されていたがゆえに男性の刻印が押されていて、女性に対して抑圧的に管理され、“フィクションのまやかしの魅力で飾り立てるといった恐るべき手ごわいやり方で、再生産されてきた”と述べている。

 このように男性の視点で描かれ、受容され、批評されてきたものの、そのことに気づきさえしないことが多かった文学作品の娼婦たちを、男性的解釈とは異なる女性の視点から村田氏は読み直そうとする。娼婦には二種類あり、「プロスティテュエ」は金目当ての下級娼婦のことである。もう一つは「クルチザンヌ」である。後者はもともと良家の出で教育や礼儀作法を身につけ、美貌と知性を兼ね備え、国王の愛妾にもなれば、自宅に政界の有力者や芸術家などを集めて社交の中心ともなった女性を表していた。従って、ロマン主義作家が一種憧憬の念をこめて描く娼婦“ロマン主義的クルチザンヌ”は “作家のファンタスムが色濃く反映された娼婦像”であり、“それぞれの作家が作り上げ、文学的次元にまで昇華した詩的な娼婦”であって、男性作家の女性観の分析に適しているとして、村田氏はこれらの娼婦たちを分析対象としたのである。

 この本はIII部構成で、第I部では、18世紀半ばに書かれロマン主義的クルチザンヌの原点ともいうべき『マノン・レスコー』や、『椿姫』、サンドの『イジドラ』という、愛の「殉教者」であり、男性優位社会の犠牲者である「恋するクルチザンヌ」を、第II部ではバルザックの描く“男の精力を枯らし、知性を奪い、人格をも破壊し、死に至らしめることもある悪魔的”で、“しかも自分の悪徳を自覚し恥じることもない”「危険なクルチザンヌ」たちを扱っている。第III部「近代小説と公娼制度」は、空想的社会主義の影響下に書かれたシューやユゴーの「社会小説」に現れるクルチザンヌたちの分析である。

 男女の視点の違いがとりわけ浮き彫りになるのは第I部である。『マノン・レスコー』はデ・グリューという男性主人公の視点によって描かれ、読まれ、批評されてきた作品であり、不実を重ねてきたマノンがデ・グリューの愛の深さに触れ、改心するとされている物語である。村田氏は言う。マノンにとって「肉体」と「心」は別物であり、大事なのは「心の操」であって、「肉体の操」ではない。しかし心と肉体の操を求めるデ・グリューにとってマノンは「不実なあばずれ女」となる。“両者の価値観のずれは、矛盾に満ちたマノン像を作り出”し、一方で彼女は「軽はずみで向こう見ず」、「移り気、金に不自由することが恐ろしくて、片時も平静でいられない女」であり、他方で「まっとうで誠実」「金銭に対して淡白」という正反対の性質を兼ね備えた「常識的な尺度では測ることのできない」女となる。しかしこの両義性・多面性こそが解きがたい女性の「謎」となって、多くの男性作家・批評家を不安に陥れると同時に魅了し、「謎の探求」に駆り立てていたと村田氏は喝破する。デ・グリューが投げかけた非難の言葉(軽はずみ、気まぐれ、恩知らず)をマノンが自らの言葉として内面化し改悛の情を見せたとたん、彼女は“自分の才覚で「幸福を整えよう」とはせずに、ただ怯え泣くだけ”の存在と化してしまう。このことを女性の側から言えば、理想の女という枠組みにはめ込まれる女性にとっての死であり、男性の側から言えば、“デ・グリューの苦難の道の終着点”となるのである。

 同じ「恋するクルチザンヌ」でも、ジョルジュ・サンドのような女性が描けばおのずとそれは男性が描く娼婦の物語とは異なってくる。「罪の女を許し、清める」役を買って出る男の内には、神に変わって他者の魂を救おうとする男の傲慢さが見出され、そのために娼婦の魂を救うのは男の愛情ではなく同性であり、サンドにとって「恋するクルチザンヌ」のテーマは、“「無垢な女」が「罪の女」を救う「女の物語」に変容”するのである。

 資本主義の確立という時代背景と男性作家の女性観との関連性も視野に入れながら、ジェンダー規範が18世紀半ばから19世紀半ばに至る約100年の間に、どのように変化し男女に内面化されていくか、空想的社会主義思想の台頭と共に男性の女性観が変化するにもかかわらず時代的制約を伴ったものでしかないかがよく分析されている。同時に、ジェンダー研究とは男女の認識の差についての学であるということがよく分かる好著である。また本書では、分析作品の挿絵の説明や、粗筋、登場人物などのコラムが充実し、作品を読んだことのない読者にも分かりよい親切な構成になっている。
2008年2月27日 15時39分 [WEB担当]

私市保彦『名編集者エッツェルと巨匠たち フランス文学秘史』

書評

 

名編集者エッツェルと巨匠たち―フランス文学秘史

作者: 私市保彦
出版社/メーカー: 新曜社
発売日: 2007/03/20
メディア: 単行本
購入: 1人 クリック: 5回 


私市保彦『名編集者エッツェルと巨匠たち フランス文学秘史』
評者:小倉孝誠(慶應義塾大学

 どのような社会の、どのような時代であれ作家が作品を書くという行為は、それを取り巻く多様な文化的・社会的網目の中に組み込まれている。象牙の塔で孤高の態度を貫いたかに見える作家や、生前まったく無名で死後にその価値が発見されたような作家であっても、同時代の「文学場」の力学から完全に自由でいることは難しい。

 そうした文学場の一つが出版業界であり、そこで働く編集者の存在である。そしてこの問題はとりわけ19世紀文学にとって大きな意味をもつ。七月王政期(1830-48)は印刷技術の進歩と国民の識字率の向上にともない、出版・ジャーナリズムが飛躍的な発展を遂げた時代であり、15世紀グーテンベルクによる活版印刷術の発明以来の「書物の第二の革命」(アンリ=ジャン・マルタン)とさえ呼ばれる。この時代、編集者は同時に出版人であり、作家にたいする彼らの影響力は18世紀までよりも圧倒的に強く、20世紀よりもおそらく大きかった。そうした編集者を代表する一人がピエール=ジュール・エッツェル(1814-86)で、私市保彦氏の近著はそのエッツェルの活動と、同時代の文学者たちとの交流を最新の文献資料にもとづいて丹念に跡付けた500ページに及ぶ文字通りの労作である。

 私市氏のエッツェルにたいする深い関心は、久しい以前からのものだ。『ネモ船長と青ひげ』(1978)や『フランスの子どもの本』(2001)でも既に、ジュール・ヴェルヌやエクトール・マロとの関係でエッツェルが言及されていた。しかしそこでは、エッツェルはあくまで流行作家を創り出した伯楽の役割を与えられていたに過ぎない。本書は、脇役だった彼が主役として登場する本格的な評伝である。

 エッツェルと言えばどうしてもヴェルヌと対で語られることが多く、実際この編集者なしに彼の『驚異の旅』シリーズは構想されえなかっただろう。本書でも二人の出会いと協同関係については1章割かれている。二人がいつ、どのような状況で知り合ったかについてはいまだに確かなことは分からない。しかし『五週間の気球旅行』(1862)の原稿を読んだエッツェルが、荒削りながらヴェルヌの才能をいち早く見抜き、彼が進むべき方向性を示唆したことは否定できない。著者は二人の間で交わされた大量の書簡を丁寧に読み解き、エッツェルがテーマの選択、物語の構図、登場人物や場面の設定、風景描写の細部に至るまで作家にこまかな注文をつけていたことを明らかにしてみせる。

 しかしそれだけではない。エッツェルの編集者としての活動は1840年代に始まった。『動物の私的公的生活情景』と『パリの悪魔』は彼がプロデュースした「生理学」本であり、グランヴィル、ガヴァルニなど当代きっての挿絵画家の協力を仰いだこの二作は、19世紀挿絵本の歴史に名を残す。そして自らスタールの筆名で文章を草する作家としても振舞った。彼はバルザックの『人間喜劇』を企画し、当時はほとんど評価されていなかったスタンダールの価値を認めて全集刊行を計画し、ミュッセやサンドらロマン派の作家と親しく交流し、著作権確立に向けて出版社と作家の立場から発言し、教育学者ジャン・マセと協力して『教育娯楽雑誌』を発刊した。挿絵本、豪華本、廉価本シリーズなど、出版史を彩る斬新な試みにおいてエッツェルが果たした役割はきわめて大きい。

 出版の教育的意義をエッツェルは絶えず意識していたし、それは彼の共和主義思想と密接に関わる。1851年のルイ・ナポレオンによるクーデタの後ベルギーに亡命し、同じく祖国を離れたユゴーの『小ナポレオン』や『懲罰詩集』を彼が刊行したのも、そうした思想背景があってのことだ。エッツェルのみならず、19世紀フランスにおいて出版事業と思想・イデオロギー上の立場決定とは不可分である。換言すれば、出版はひとつの政治行動だったということである。だからこそ私市氏は、二月革命や第二共和制、パリ・コミューンや第三共和制などの歴史とエッツェルがどのように関わったかについても、詳細に叙述する。そうした目配りの周到さも本書の価値のひとつになっている。

 かつては歴史家たちが、文化史の立場から出版・ジャーナリズムを論じていた。たとえば、19世紀の主要な出版人ミシェル・レヴィとルイ・アシェットについてはモリエが体系的な研究書を著している。他方、文学研究者の側では近年に至って、文学生産の現場から出発してこのテーマを論じる姿勢が鮮明になってきた。そこにブルデュー社会学の影響が感じられることは否定できない。マリー=エーヴ・テランティの『日常性の文学――19世紀におけるジャーナリズム的詩学』(2007)はその最新の成果である。日本では宮下志朗氏の仕事が想起されるところだろう。こうした研究の流れに位置づけられる私市氏の著作は、19世紀フランスを代表する一編集者に関するわが国初の本格的な研究であり、見事な成果である。