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2003年4月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評


 「編集知」の世紀―一八世紀フランスにおける「市民的公共圏」と『百科全書』

作者: 寺田元一
出版社/メーカー: 日本評論社
発売日: 2003/04
メディア: 単行本

寺田元一『「編集知」の世紀』
評者:阿尾安泰

 遠目には静止しているかと見える独楽には、均衡を支えるための激しい回転がかけられている。そうした動きを忘れる者はいない。だが歴史に関する限り、動きを読み取っていこうとする作業がいかに難しいものであるかを、本書は教えてくれる。

 確かに18世紀は未知の時代ではない。啓蒙の世紀と呼ばれ、17世紀古典主義の後を受け、フランス革命にはじまる近代の夜明けの前に位置している。新しき時代を準備する過渡期とみなされているわけである。ただその移行という図式が強調されるとき、18世紀は近代成立という大義を前にして、つかの間の淡い存在となり、その時代が担っていた運動が、18世紀の独自性が見失われる恐れはないだろうか。

 そもそも啓蒙とは何であろうか? その問いかけから本書は出発する。従来のイメージでは、光が降りそそぐように、知が伝播していき、知識人が民衆を教化するという一方向的なものが支配的であった。しかし、少なくとも18世紀フランスは、大文字、単数の「理性」や「光」が支配したり、ひとつの強大な知が征服的に力を広げていく場ではない。むしろ、小文字の複数の光が相互に反射しあいながら、その影響、干渉作用を通じて、知の空間が構成されていくのであった。そのとき「編集知」というキーワードが現れる。従来の直線的、一方向的な印象を与える「啓蒙」ではなく、複数の交錯する情報の中から、取捨選択、組み合わせ等の作業を繰り返しながら、状況に応じて新たに形成される知が問題となる。

 抽象的で限定的なモデルを想定している限り、知の生成の過程が問われることはない。18世紀の動的なプロセスを考えようとするならば、その活動の場に注目しなければならない。この時代においては、私的領域と公的な領域の間に「市民的公共圏」が成立していた。個人的なものとして回収されるでもなく、また公的なものとして一括して処理されるわけでもない独特の空間が舞台となる。具体的な場所としては、カフェ、劇場、公園などがあげられる。そこで流通する情報は上下関係などのヒエラルキーを構成して整序化に向かうというよりは、相互に影響、浸透しあい、独自のポリフォニックな言語文化空間を志向していく。

 この空間のダイナミズムはその主要な活動人物たち、出版業者、「ヌーヴェリスト」、「ギャルソン」などによっても知ることができる。知の大御所が下々に得々と託宣を下すという図式を抱いてはならない。それでは、この時代を捉えていた揺れを感知することができない。実際、検閲の形骸化の中で出版界の状況は流動的となり、ヴェンチャービジネス化し、一攫千金を狙って、同業者を破産に追い込むことも辞さない業者が現れる。また成功を夢見る無名文士である「ギャルソン」やうわさ、ゴシップの収集を主とする「ヌーヴェリスト」が新たにネットワークを形成し、独自のルートで情報を流していこうとする。

 そうした流動化、ネットワーク化を背景として、知の活性化が進展する。18世紀の記念碑的な業績である『百科全書』でさえも当初ヴェンチャービジネスとして始められ、その事業を支えた寄稿者も大半は当時無名の「ギャルソン」であった。17世紀の事典のように観念の順序に事項を配列するのではなく、アルファベット順という恣意的な配列を採用するこの百科事典は、18世紀の知のあり方である「編集知」の特質を良く示している。もはや知は一義的、排他的に与えられていくのではない。各自が、世界認識の相対性を自覚した上で、流通している情報群の中から、自らのコンテクストを考えて、知を再構成していくことが求められるのである。『百科全書』の恣意性は知の体系の自由な創出に対応している。

 そして、『百科全書』はそれ自体の中にも、動的な仕掛けを蔵している。クロスレファレンスである。それは事典内部で項目から項目へと参照させるレファレンスのことを言う。項目同士は相互に参照・批判されることを通じて、別なコンテクストへと送り込まれ、新たな知を形成するネットワークを作り上げる。そして、この項目間の相互関係こそ、現在『百科全書』のテクストのデジタル化が進められ、パソコンによる大規模で総合的な検索が可能になった状況において、その全容が明らかになりつつある。その仕組みの機能の詳細が現代において少しずつ明らかになってきている。

 このように本書において寺田氏は、従来十分な考慮が与えられてこなかった18世紀の言語文化空間のダイナミックな姿を鮮やかに描き出している。近代に至るまでの一通過点にしかすぎないとみなされてきた風景が、波乱に満ちた姿とともに、氏の描写のなかで、今鮮やかに甦る。