Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

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2003年12月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評
 

 カミュ『異邦人』を読む―その謎と魅力

作者: 三野博司
出版社/メーカー: 彩流社
発売日: 2002/11
メディア: 単行本
購入: 3人 クリック: 32回



 

 カミュ 沈黙の誘惑

作者: 三野博司
出版社/メーカー: 彩流社
発売日: 2003/12
メディア: 単行本
購入: 1人 クリック: 11回


三野博司『カミュ「異邦人」を読む』、『カミュ 沈黙の誘惑』
評者:松本陽正

 『カミュ「異邦人」を読む』の冒頭には、1992年にジャクリーヌ・レヴィ=ヴァランシが述べた言葉の要約が据えられている。「『異邦人』は、世界でもっとも翻訳され、研究され、読まれてきた小説の一つである。」

 たしかに、研究面だけみても、「『異邦人』は膨大な注釈を雑誌論文、単行本、学位論文の形で生み出したし、現に生み続けていて、今日では新しい見方をすることがほとんど不可能なほどである」とベルナール・パンゴーが述べたのは1973年のことだし、また、「その数と多様性とにおいて、『異邦人』解釈史は現代フランス文学史のなかでも特権的な地位を占め、それだけで単独の研究対象になりうるといってもけっして過言ではない」と西永良成氏が記したのは1976年のことである。1998年、『異邦人』を歴史的なコンテクストに置き戻すことによって独自の論を展開したクリスティアーヌ・ショーレ=アシュールは、「(『異邦人』について)まだ何か言うべきことがあるのだろうか?」と自問することから論を始めている。日本においても、この30年ほど、『異邦人』のみを対象として、作品に新たな光をあてた学会発表はなかったと言っていい。

 このようなことを十二分にふまえた上で、三野博司氏は『異邦人』再読を試みる。

 本論は二部構成をとっている。すぐれた論考がそうであるように、本書も目次を見ただけで論の展開の予測がつく。第?部「通時的に読む」は、副題(「『異邦人』の物語にそって」)が示すように、時間軸にしたがって冒頭から結末に至るまでのストーリーを丹念に追いつつ、注釈がほどこされている。作品自体よりも少し長いくらいだ。

 構成上からは類例のない『異邦人』論だが、ただどの点が誰の注釈なのかについて明示されていない箇所もある。とはいえ、このような形でのテクスト・クリティク自体に独創性があると言えるのではないか。全体的な構成の斬新さ、それによってしか新たな『異邦人』論を提出することはまずもって不可能に思えるのだから。

 だが、本書のユニークさは、第?部以上に第?部「共時的に読む」にあるように思われる。ここでも副題(「『異邦人』批評の批評」)に明確に示されているように、サルトルからショーレ=アシュールに至るまでの60年近くにわたる『異邦人』批評の変遷が簡潔・的確に批評されている。全体は三分割されている。まず、「語り手ムルソー」の異邦性についての解釈史が紹介される。ついで、「主人公ムルソー」の異邦性へとすすみ、従来の批評が「自然/歴史」「個人/社会」「母/父」等々、9種類の二項対立にまとめられている。最後に、二項対立におさまりきらない「アルジェリア」と「アラブ人」についての批評がとりあげられている。

三野氏が渉猟した『異邦人』批評史のこのような形での提示は、1972年にそれまでに著された『異邦人』論を7つの読解方法に分け、詳細な報告・批評を行ったブライアン・T・フィッチ以来のことだろう。先にあげた西永氏の言葉を想起すれば、本書の第二部は一つの大いなる〈研究〉成果といえるだろう。これから『異邦人』研究を志す若い方々には、またとない参考文献リストともなろう。あえて補うとすれば、フィッチにあった「伝記的読解」の欠落だろうが、「異邦性」でまとめた論考である以上、「伝記的読解」の捨象は三野氏の意図的な選択と考えられる。

 テクストとしてフォリオ版が使われていることからも、ある程度フランス語に親しんでいる人たちを読者対象としていることが看取される。もっとも、邦訳のページは容易に推測がつく。フランス語を知らぬカミュファンにとっても恰好の研究書となろう。

と同時に本書は、単に『異邦人』解釈史にとどまらず、戦後のフランス文芸批評の流れを把握する上でも貴重な道しるべとなることだろう。

 三野氏は1987年にパリのコルチ書店からLe Silence dans l’œuvre d’Albert Camus(『アルベール・カミュの作品における沈黙』)を上梓していた。三野氏も言うように、カミュにおける〈沈黙〉については従来指摘がなかったわけではないが、カミュ作品に通底するテーマとして〈沈黙〉を捉え、正面から論じたのは三野氏が初めてであり、氏の労作はフランスでも高い評価を得ている。

 『カミュ 沈黙の誘惑』は、「あとがき」にあるように、この高著を訳出したものに、「付論」として1994年に出版されたカミュの遺稿『最初の人間』に関する論文(「『最初の人間』沈黙の物語」)を添えた構成をとっている。「序論」と「結論」にはさまれた本論は9つの章より成り立ち、カミュにおける〈沈黙〉の諸相が追究されている。おそらくは « silence »(「沈黙」)のすべての用例にあたられたのだろう、精緻な例証には圧倒されてしまう。

 ただ、全体的な構成はやや複雑で、『ペスト』が言わば回転軸のようになっている。「第一章 母親の沈黙」「第二章 自然の沈黙」「第三章 沈黙の桎梏」「第四章 神の沈黙」では、初期作品から『ペスト』に至るまでの〈沈黙〉が、それぞれ章題に付された言葉との関連で、角度を変え、音色を変えて論じられている。第五章以降は、趣を異にする。第五章から第八章までは時代が細分化され、第五章では『ペスト』、第六章では『戒厳令』『反抗的人間』『正義の人々』、第七章では『転落』と「背教者」、第八章では「背教者」を除く『追放と王国』所収の諸短編と『夏』とをそれぞれ中心に据え、論が展開されている。そして、「第九章 証言」から「結論」につながれている。このような構成の理由としては、『ペスト』において母親の理想像が提示されたこと、『ペスト』以降は「自然」よりも「歴史」の比重が相対的に増大すること、『転落』のクラマンスには否定的側面が見受けられること、などがあげられるのではないだろうか?

 いずれにしても、日本人ならではの着眼点による卓越した論考であり、従来マイナーなものとされていた〈沈黙〉のテーマを前面に浮かびあがらせた功績は大きい。

 カミュの師ジャン・グルニエは、『異邦人』などからは「謂れなく傷つけられた獣の叫び」のような「野性の叫び」が聞こえてくる、との見事な指摘を行っていたが、それも「アルベール・カミュのすべての作品をつうじて、弱音でうたわれる沈黙の歌」(ポール・ヴィアラネーの「序文」より)が流れているがためであろうか。そのような思いにとらわれる。

すでに述べたように、『カミュ「異邦人」を読む』はカミュファンも楽しめる本だが、それに比べると『カミュ 沈黙の誘惑』は一般読者にはやや難解かもしれない。とはいえ、カミュを専門的に研究しようとする人たちは言うまでもなく、文学を深く学ぼうとする人たちにも、多くの示唆を与えてくれる書物である。