テクスト論の行方
テクスト論の行方
パネリスト | 高木 裕(新潟大学) 松澤和宏(名古屋大学) 赤羽研三(上智大学) 原田邦夫(愛知県立大学) |
テクスト論の20 世紀のめくるめく展開を受け、そして今は? テクスト論は斜陽なのか? テクスト論は有効なのか? 加藤典洋はその著書の中で、有効であるどころか、その影響は文学・思想界に停滞をもたらしたと、テクスト論を断罪している。現在、テクスト論は着実に文学研究の中に浸透し、テクストの読解に寄与しているとの見方がある一方で、この浸透の仕方そのものを問題視する見方もある。このような「テクスト論の行方」をめぐる議論の中、今回は4名のパネリストがそれぞれの立場からこれまでの「テクスト論」とのかかわり、そして「現在」について基調報告した。
赤羽氏は、テクスト論の歴史を総括的にたどり、その上で、バルト等のテクスト論の内的な読みがどのように社会、歴史、文化という「外」と繋がってゆくのかということにふれ、今日の発話行為論やディスクール論は一つの答えを提示しようとしていると報告した。
原田氏は、「間テクスト性」intertexualitéの用語をめぐるテクスト論の系譜を報告し、リファテール、ジュネットなどの狙いは文学の科学を目指すところにあったが、クリステヴァにおいては人間に固有の意味実践の、いわば社会的な位置づけを「文学」をとおして解明しようとしたのであり、その作業において問題になるのが記号実践としての「テクスト」であったと指摘した。
高木は、文学テクストにおける<声>の特質を知るためには、écritureの戦略のあるなしにかかわらず、言語生成のメカニズムにアプローチせざるをえず、そこに、一つのテクスト論の可能性があると述べ、散文について言表の特異な仕掛けに理論的アプローチするドミニク・ラバテの取り組みを紹介するとともに、抒情詩における<声>については、ネルヴァル、ボードレール、ランボーのテクストを例に報告した。
松澤氏は、後期バルトのテクスト論が孕む問題をとりあげ、バルトには審美的価値判断というものが本来他者に開かれた公共性を宿しているという観点が欠落していると指摘し、言葉が、水や空気のようにわれわれが共に生きていくうえで欠かすことのできない条件であり、環境であり、公共財である点に注意を促し、審美的個人主義によって覆い隠されたこの共同性の次元を掘り起こす必要があることを説いた。
各自20分ほどの発表であったが、それぞれ明確に問題点は整理され、70名ほどの参加者にテクスト論の歴史的位置づけとその射程については十分示せたのではないかと思う。フロアからは、発話状況を蚊帳の外においても了解可能な「テクスト」など、パネリストがふれることのできなかったテクスト論のいくつかの試みについて、大変貴重な指摘を頂いたが、会場からの質問者が少なく、フロア参加型のワークショップにする難しさを感じた次第である。(高木)