ラブレーの今日
ラブレーの今日
パネリスト | 細川哲士(立教大学) 宮下志朗(東京大学) 荻野安奈(慶應義塾大学) 平野隆文(青山学院大学) |
まず、宮下さんは、自分の翻訳で何を心がけたかを語った。学生には難しすぎる渡辺一夫訳に対して、①わかりやすく、漢字にたよらない。②原文のラテン語をカタカナで訳さない。③「~と言った」を省略したところもある。④デアル調にデスマス調をまぜた。⑤注を、本文を読むための補助と考えて、割り注と、(ページの終わりの)小口注とを使った。⑥地図・年表を入れた。そして、その結果がどうなったかを示す具体例として、「作者の序詞/前口上」の渡辺訳と宮下訳を読み比べて、皆をうならせた。
平野さんは、周到に用意されたビッシリ4ページのハンドアウトを使って、お得意の分野を披露された。平野さんは自分をラブレー研究にいざなったマイクル・スクリーチの『ラブレー』を目下訳出中だが、同書の悪魔解釈に矛盾を発見し、この機会に自説を開陳された。かねてよりパンタグリュエルとの対比でパニュルジュをどう評価するかは諸説わかれるところであったが、スクリーチの言うように「自己愛にとらわれたパニュルジュというとき、自己愛とは倫理的に間違っているということではなく、悪魔がすみついているということだ」つまりパニュルジュに悪魔が憑依しているとみなすと、解決不能の問題にいきついてしまう。だが同時代の文献から、悪魔の取り付きには3段階があり、軽いものはSEDUCTION(悪魔は外部)、ついでOBSESSION(悪魔は人体に侵入するが、人格は保たれる)、そしてPOSSESSION(人格も失われる)となることが分かり、パニュルジュの場合、第一の段階にあるとテクストも明示するように、これは憑依ではありえない。悪魔が悪魔を追い払うことはおかしいからである、と述べ、なるほどと思わせた。
荻野さんは、若い研究者がスクリーチのユマニスト・ラブレーとバフチンの民衆文化のラブレーのあいだで悩むことがあるが、ラブレーのテクストの言霊・作品そのものの力に触れてみることが大事だ、これまで物量作戦的列挙だと思ってきたものが、そうでなく、テクストそのものが面白い構成と内容をもっていることを、昨年、上野鈴本で発見したという。金原亭馬生師匠と兄弟子の馬吉さんによって、ジャン修道士とパニュルジュの掛け合いが再現、第三の書のふぐりの列挙を語ってもらう機会に出会ったときだ。(これは金原亭馬吉さんのご好意により会場でその録音を拝聴することができた)これに加え、荻野さんは①落語とフランス文学、ラブレーが小学生にバカうけすること、②院生をよろこばせずにはおかないフランスのラブレー新作絵本2点紹介のあと、③アンナ試訳ラブレーの失敗談、こっけいはナマモノなのですぐナマゴミになってしまう例などを、金原亭駒ん奈さんとして語ってくださり、最後に④ラブレーを中心軸にすえて、文学史を読むことのおもしろさの一端を披露された。荻野さんは『マダム・ボヴァリー』の一節に、異なるモードのあいだに並存する、おもしろ/まじめ、がレトリカルにいれかわるシーンを発見する。妻の死と子供の出生にたちあうガルガンチュアの場面を、ロドルフとエンマのあいびきの場面に重ねてみる。そこでは農業品評会の授与式のアナウンスの声と、恋人同士のやりとりが、なるほど奇妙に交錯しているではないか。目からうろこの指摘であった。
(みなさんに感謝:細川哲士)