2016年度秋季大会・ワークショップ1



2016年度秋季大会
ワークショップ1
Dire le bonheur : une gageure littéraire ? 

Yann MEVEL (Président, Université du Tohoku )

Guilhem ARMAND (Université de la Réunion)
Yuki ISHIDA (chercheur attaché à la JSPS)
Mirei SEKI (Université d’Aichi)


Cette table ronde constitue la première phase d’un projet de recherche mené en collaboration avec un spécialiste de la littératurefrançaise du XVIIIe siècle, Guilhem Armand, maître de conférences à l’Université de La Réunion. On pourrait, à l’heure actuelle, penserque le bonheur relève essentiellement d’une littérature populaire, à faible valeur artistique. Cette table ronde permettra de nuancer ce pointde vue. Ce n’est pas uniquement de représentations ou même d’aspirations qu’il sera question, mais des pouvoirs de l’écriture et de lalittérature. La communication de Guilhem Armand, intitulée Le bonheur selon Diderot : variations de l’idéal matérialiste, visera à cernerles variations et les nuances d’une conception du bonheur qui, dans ses contradictions et revirements, reflète bien les hésitations du siècledes Lumières. La communication de Yuki Ishida, doctorant et chercheur attaché à la JSPS, Le bonheur par la création littéraire : les liensentre le bonheur et l'imaginaire chez Rétif de la Bretonne, tentera d’éclaircir la tentative de Rétif de la Bretonne de faire de l’écriture lemoyen d’un bonheur individuel et idéal. La communication de Mirei Seki, maître de conférences à l’Université d’Aichi, portera surLa représentation du bonheur dans les romans des écrivains femmes au XIXe siècle, et s’intéressera notamment à des œuvres de Delphinede Girardin et de George Sand. Elle évoquera des écrivaines à la recherche d’un bonheur tout à la fois individuel et collectif. Enfin, lacommunication de Yann Mével, Avec et après Beckett : le bonheur malgré tout ?, rendra compte des traces ou signes de l’espoir, despossibles épiphanies dans l’œuvre de Beckett, avant de se pencher sur des œuvres d’écrivains qui se reconnaissent en Beckett. 
 

2016年度秋季大会ワークショップ3



2016年度春季大会
ワークショップ3
生誕111年 J.-P.サルトル再読─実存主義を遠く離れて 


翠川博之(コーディネーター、東北大学非常勤講師)

生方淳子(国士舘大学)
澤田直(立教大学)

 

かつて日本は世界のどの国よりも熱狂的にサルトルを受容しながら、その後、手のひらを返すようにサルトルを読むことを止めてしまった。残念なことに、サルトルといえば『嘔吐』と『存在と無』の実存主義者、『弁証法的理性批判』を書いたマルクス主義的知識人といった紋切り型がいまだに幅を利かせている。他方、フランスを中心とする欧米では、膨大な遺稿類の発掘や検討を通して、彼の広汎な仕事に対する学際的研究が現在も活発に進められている。生誕 111 年。いま、サルトルのテクストは読者になにを語りかけるのか。本ワークショップは、最先端の研究を意識しつつ、旧来のサルトル像を刷新するために企画したものである。邦訳のない作品や新資料を参照しながら、研究領域を異にする3名のパネリストがそれぞれの観点から新たなサルトル像を描き出す。

澤田は、芸術家と作品を歴史の中で結節しようとするサルトルのアプローチに、作者と作品を截然と分かつ作品至上主義的な読解を越える新たな芸術論の可能性を見いだすべく、知られざるティントレット論を含むイタリア関連テクストを読解する。翠川は演劇テクストに注目。未訳の戯曲第一作「バリオナ」と直後に書かれた『蠅』を一対の作品と捉えることで、『存在と無』の翻案とみなされてきた『蠅』の意味を根本から問い直し、その制作過程からサルトルの心性、思想の裏面をあぶり出す。生方は1964− 5年に執筆された遺稿「コーネル大学講演予定原稿」を取り上げ、いったんは倫理学を放棄したサルトルが倫理の規範性とモラル・ジレンマについてどう考察を進めていたのか、コールバーグの道徳性発達理論と比較しながら検証する。 

 

2016秋季大会ワークショップ4





2016年度春季大会
ワークショップ4
ソシュール『一般言語学講義』の 世紀 ― 構造主義、時枝論争、新手稿 

阿部宏(コーディネーター、東北大学)

松澤和宏(名古屋大学)
金澤忠信(香川大学)
松中完二(久留米工業大学)


本年は、『一般言語学講義(以下、『講義』)』(1916)刊行 100 周年にあたる。この著作は 20 世紀言語学のバイブルとしての位置づけにとどまらず、人文社会諸科学の構造主義の思潮を生み出し、他方では『講義』のテキストそのものを再検討するソシュール文献学を誕生させ、今日に至っている。また日本では、言語過程説の立場からのソシュール批判、いわゆる時枝論争が展開されることとなった。

本ワークショップは、『講義』が巻き起こしたこれら国内外の1世紀の動向を批判的に踏まえた上で、以下の諸点を中心に議論し、新たなソシュール研究の方向性を模索するものである。・「ソシュールの手稿」には一般言語学に関するものだけでなく、歴史比較言語学、伝説・神話研究、アナグラム研究、書簡、日記・忘備録、政治的言説なども含まれている。これらは少しずつではあるが公表されており、「構造主義の先駆者」にとどまらないソシュール解釈の可能性を示唆するものである。

・ソシュール学説における最大の謎と矛盾点は、「言語の科学に langue を設定」し、「言語が実存体」であり、「言語記号には差異しかない」という主張である。これらの主張こそが、時枝誠記が己の学説で全面的に異を唱えた点であった。しかし、この時枝論争を今日的観点から検証してみれば、新たな側面が見えてくるのではなかろうか。・ソシュールの弟子たちによる編著書『講義』の刊行によって流布し定着した観のある通説(ドクサ)の一つが、記号内の二つの面(シニフィエとシニフィアン)の関係は、同じ体系内の記号間相互の差異的関係の二次的な結果に過ぎない、という解釈である。丸山の説いた「ソシュールの思想」の核心でもあるこの通説を、手稿や聴講ノートに基づいて再検討する。 


 

2016秋季大会ワークショップ5

2016年度秋季大会
ワークショップ5
レチフ・ド・ラ・ブルトンヌを読む ― 記憶・系譜・道徳



藤田尚志(コーディネーター、九州産業大学)
森本淳生(京都大学人文科学研究所)
辻川慶子(白百合女子大学)

これまで18世紀の専門家にさえ扱われることの少なかった文学者レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ。この分類不能な未聞の作家に対して登壇者三人は、門外漢ながらそれぞれの関心から接近し、新たな可能性を引き出すことを試みる。

森本は、『ムッシュー・ニコラ』中の「サラの物語」に、文学が記憶・回想と特権的連関をもつに至る、その端緒の一つを見出す。自己の人生を絶えず反芻し、その様々な変奏を作品化するレチフにおいて、統一的な主体は記憶の多様な層へと分散している。人生の絶えざる書き換えとその再創造は、現代のオートフィクションの論点にほかならない。

辻川は、レチフ、ネルヴァル、シューに共通する「捏造された家系図」というモチーフを出発点とし、1848年前後のレチフ・リバイバルの意義を考える。三者いずれにおいても、現在の起源を辿る試みの中で、正統性を欠いた遺産継承の物語が語られる。過去の書き換え、系譜の詐称という遺産創生の物語が新たな集合性の夢を生み出すさまを検討する。

藤田は、近代的結婚の可能性と限界を同時に描写したルソーとは真逆の位置を占めるのがレチフであるという見取り図のもと、具体的な作品の幾つかをとりあげる。レチフによる道徳性の称揚と家族壊乱的論理の交差を、単純に裏/表と捉えるのではなく、道徳性そのものが持つ不道徳性(不実な誠実さ/誠実な不実さ)という仕方で読み解くことを試みる。

こうして、虚構的自伝、捏造された系譜、家族の(不)道徳性という観点から、個別の作品を具体的に読み解くことで、彼の多様な問題意識とその根本的統一性が露わになる。レチフにおいて裏側から目撃されるもの、それは近代的な主体の創設ではないだろうか。 

 

2016年度秋季大会・ワークショップ6


2016年度春季大会
ワークショップ6

文学集団の詩学 

熊谷謙介(コーディネーター、神奈川大学)
倉方健作(九州大学)
福田裕大(近畿大学)
合田陽祐(山形大学)

19 世紀後半の詩は、一方でボードレール、マラルメ、ランボーと固有名詞で語られがちであり、他方で政治や宗教などの言説に引き寄せて論じられる傾向にあった。しかし、作品は決して一人の天才によって作られるものではない。また他領域の言説より先に来るのは、同時代の文学的言説の中でどこに身を置くか、である。これは「文学の自律性」(ブルデュー)を再考する上でも重要であろう。私たちはこれを「文学集団」の観点から考えたい。大衆社会の成立期にあって、詩人たちは集団を形成し、言葉を互いに流通させながら、文学の商品化の時代を生きていた。本ワークショップでは、19 世紀後半の詩人たちを中心に、作品創造の場となる共同体について論じていく。

倉方は「高踏派」と括られてきたグループを再検討することから、文学史上の区分の自明性、研究対象としての「個人」と「集団」のあり方を問う。福田は 1870 年代の文芸サロン・文学的小集団のなかでみられた様々な創造実践に着目し、同時代の作品生産・受容のありかたを集団性の観点から再考する。 熊谷は 1890 年代において師弟の問題が前景化したことを確認し、マラルメが理想とした「師弟のまじわり」に着目することで、世紀末の文芸共和国の在り方について考察する。合田はジャリの『フォストロール博士の言行録』をアンソロジーとして再読することを通し、1890 年代の『メルキュール・ド・フランス』誌の共同体のあり方について問う。間テクスト性、ホモソーシャル、雑誌メディア、アンケート、マニフェスト、朗読、集団創作といったキーワードで考えることで、19 世紀後半のみならず、ボエームや 20 世紀の前衛芸術集団を考えるための視点を提供し、多くの聴衆に活発な議論を喚起できればと考えている。