2013年度春季大会・ワークショップ1





2013年度春季大会
ワークショップ1
作家の書簡をどう読むか
(2013年6月2日・国際基督教大学)


小倉孝誠(コーディネーター、慶應義塾大学)
桑瀬章二郎(立教大学)
岑村傑(慶應義塾大学)

 誰もが書くという意味で、手紙は普遍的な言説である。しかし手紙の内容と形式、表現様式、それが書き手にとって有する実存的な価値、さらには手紙の交換をめぐる文化的状況は作家によって、時代によって異なる。本ワークショップでは、さまざまな時代の手紙を対象にしながら、文学(者)と手紙の関係、文学としての手紙について考えてみたい。

 家族や、友人や、恋人や、同業者に宛てて、作家たちはしばしば驚くほど数多くの、しかも長い手紙を書き送った。そうした手紙は作家の知的形成、秘めた内面性、文学観、作品の生成などについて多くを教えてくれるから、文学研究者にとっては不可欠の資料である。他方現代では、書簡集を一つのテクストあるいは「作品」として位置づけるという姿勢も認められる。手紙をテクストと見なせば、そこに一定の文体や、レトリックや、主題系を見出すことが可能になる。こうして、たとえば書簡作家としてのフロベールやプルーストに関する研究書が著わされた。また歴史的に見れば、18 世紀末~19 世紀初頭のロマン主義時代以降、手紙のプライベートな性格が強まっていくが、そうしたintimité の表出は、ほぼ同時期に確立した自伝や日記と共通する。手紙と自伝、日記の関係をあらためて考察してみるのも興味深いだろう。

 桑瀬は、啓蒙期の書簡を中心に、これまでの書簡研究の流れを整理したうえで、それが陥った袋小路を指摘し、来たるべき書簡研究の可能性を模索する。誰ひとりとして批判できぬ微視的な視点からの分析は完全に放棄し、誰もが批判しうる巨視的な視点からの仮説を提示してみたい。

 小倉は、19 世紀作家たちの書簡集刊行をめぐる近年の状況を概観した後、エミール・ゾラの手紙にそくして彼が誰に、何のために、どのような手紙を書いたのかを問いかける。他の作家たち(バルザックやフロベール)と比較しながら、ゾラの手紙の特徴を考えてみたい。

 岑村は、20 世紀における作家と手紙の一例として、ジャン・ジュネの場合を検討する。若き日の敬愛する女性への手紙から後年のカフカやデリダについての手紙までを分類しながら——しかし、何を基準に?——、ジュネにおける書くということと、ほかならぬ手紙を書くということとのあいだに、密接な関連を見いだしたい。手紙をめぐっては文学研究の立場からのみならず、文化史や心性史の観点からもさまざまな問題提起が可能であり、その多面性に聴衆と共にアプローチしてみたい。

 

2013年度春季大会・ワークショップ2





2013年度春季大会
ワークショップ2
来たるべき修辞学
―文学と哲学のあいだで―
(2013年6月2日・国際基督教大学)


郷原佳以(コーディネーター、関東学院大学)
藤田尚志(コーディネーター、九州産業大学)
塚本昌則(東京大学)

 哲学と文学、虚構と真理、虚偽と真実、記述的と行為遂行的の狭間で、もう一度、修辞学に関する事柄、レトリック、比喩、隠喩、アナロジーなどについて再検討してみることで、フランス文学研究に対して何がしかの貢献をできないか。それが本ワークショップの趣旨である。

 たとえばアレゴリー(allégorie)は、all(o)-(他の、異質の)、つまりhétéro-とagoreuein(話す)からなる語であるが、これに対して、tauto-(同じ、等しい)、つまりhomo-という接頭辞を付したtautégorie という造語を提唱したのがシェリングである。ゲーテ以来、「個別から普遍へ」と向かう象徴との対比において、アレゴリーは「普遍から個別へ」と一般に理解されているが、「タウテゴリー」という考え方からすれば、アレゴリー(寓意)は、個別による普遍への接近を目指す。イソップの寓話において、「働き者のアリ」は、「勤勉さ」という抽象概念を理解させようとする。これに対して、タウテゴリー(自意)は、すでに普遍を内包した個別である。ギリシア神話において、「知の女神アテナ」は、単に知という抽象概念へ接近させるのみならず、それ自体が神性という普遍の厚みを持って自存しているものである。このようなアレゴリーとタウテゴリーの区別は、comme si などと同様、真実と虚構のあいだの複雑な関係を照らし出してくれる。比喩形象・文彩(figure)と思考・言語はいかなる関係を結んでいるのか。

 藤田は、ベルクソンにおけるメタファーとアナロジーの用い方が、彼の哲学体系においていかなる役割を果たしているかを解明しようとする。

 郷原は、ミシェル・ドゥギーやデリダがメタファーに関して、また近年ではブリュノ・クレマンがプロソポペイアに関して展開しているように、言語の特殊様態(文彩)というよりも文学さらには言語の根本にあるものとして比喩形象(figure)を捉える見方について考察する。

 塚本は、ヴァレリーにおける「フィギュール」の概念を論じる。『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』以来、ヴァレリーは言葉や概念に基づかない、フィギュール(形象、図形、動作)による思考の可能性を追求してきた。その道筋を、リオタールの『ディスクール、フィギュール』や、ドゥルーズの『感覚の論理』を参照しながら再検討する。言葉によらない、フィギュールによる思考と、修辞学でいうフィギュール(文彩)がどのように関係するかを考え、ヴァレリーの詩学の一面にせまってみたい。

 

2013年度春季大会・ワークショップ3





2013年度春季大会
ワークショップ3
演出家からみたフランス演劇
(2013年6月2日・国際基督教大学)


岩切正一郎(コーディネーター、国際基督教大学)
鵜山仁(演出家。文学座、新国立劇場演劇芸術前監督)
中村まり子(演出家・俳優。パニックシアター主催)
佐藤康(戯曲翻訳家、明治学院大学非常勤講師)


 演劇は文学の一ジャンルなのか? なかなか難しい問題である。ここでそのような議論に深入りすることは、とりあえず脇にどけておこう。

 文学テクストは読まれる、だが戯曲テクストは演じられなくてはならない。日本で外国作品を上演するには、まずテクストを翻訳する必要がある。が、それはたんなる出発点に過ぎない。そこから演出され演技されて初めて、演劇作品は観客のまえに姿をあらわす。

 今、演出家がフランス演劇に取り組むとき、なにが魅力であり、なにが困難であるのだろう? かつてはモリエールのフランス語上演もあったりしたのに、今、翻訳でも、ラシーヌやモリエールはなぜシェイクスピアやチェーホフのようには頻繁に上演されないのだろうか? フランス演劇には、日本ではなかなかポピュラーになりきれない独特の文学性・思想性があるのだろうか? それとも、古い演出スタイルやイメージを後生大事にしているうちに、フランスで刷新され続けている同時代性から遠ざかってしまったのだろうか?

 舞台の現場でフランス戯曲の演出に、演技に、翻訳に深く関わっている三者をパネリストに迎え、「演出家からみたフランス演劇」についてディスカッションしたい。大学の授業で戯曲テクストへアプローチするときの、あるいはまた、研究対象として戯曲に対するときの、多くのヒントを得ることができればと思う。また、参加者と自由な質疑が交わされることを期待する。